≠フ団塊の、ほんの表面の薄膜に生ずる黴《かび》ぐらいのもののように取り扱われているようであるが、はたしてそんなものだろうか。このような婦人が、美服に対した時に、あらゆる理知の束縛を忘れ、当然な因果を考える暇もなく、盗賊の所行をあえてするようになる衝動はそれはど浅薄な不まじめなものばかりとも思われない。その衝動の背後には、卑近な物質的の欲望のほかに、存外広い意味において道徳的な理想に対する熱烈な憧憬《どうけい》が含まれているかもしれない。もしたとえば社会の組織制度に関するある理想に心酔して、それがために奪い殺し傷つける事をあえてする団体があるとすれば、どこかそれと共通な点がないでもない。この婦人の行為は利己的である、社会的理想はそんなものと根本的にちがっていると一口に言ってしまってもいいものだろうか。いったい普通に使われる利己と利他という二つの言葉ほど無意味な言葉は少ない。元来無いものに付せられた空虚な言葉であるか、さもなければ同じ物の別名である。ただ人を非難したり弁護したりする時や、あるいは金を集めたり出したりする時に使い分けて便利なものだからだれでも日常使ってはいるが、今自分の言って
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