うものか自分はここだけ、よその商人が店借《たなが》りして入り込んでいる気がする。どうしてこの洋品部が丸善に寄生あるいは共生しているかという疑問を出した時にP君はこんな事を言った。「書物は精神の外套《がいとう》であり、ネクタイでありブラシであり歯みがきではないか、ある人には猿股《さるまた》でありステッキではないか。」こう言われてみればそうであるが、自分はただなんとなくここをのぞく気にならないでいつでもすぐに正面の階段を登って行く、そして二階の床《ゆか》に両足をおろすと同時に軽い息切れと興奮を感じるのである。
階段を上って右側に帳場がある。ある人はこれを官衙《かんが》の門衛のようだと言ったが、自分もどちらかと言えば多少そんな気がしないでもない。これは建築者の設計の中に神経過敏な顧客の心理という因子を勘定に入れなかったためであろう。
自分はいつでもこの帳場の前を通ってまずドイツ書のある所へ行く。ここはちょっと一つの独立な区画になっている、戦争前には哲学、美術、科学とそれぞれの部門にわたって系統的に分類して陳列されていたのが、このごろではもう目ぼしいような物は大概売り切れてしまって、いろいろな部門のものが雑然と入り乱れている。ドイツ自身の欠乏と混乱とがこんな所までも波及しているかという気がする。実際鶏卵や牛乳や靴《くつ》の欠乏は聞くも気の毒な状態であるらしいが、ただ驚くのはかの国の科学者、特にペンと紙のほかには物質的材料を要しない種類の科学者が依然としてきわめて重要な研究の結果を着々発表している事である。
ドイツ書の棚《たな》の前で数分を費やした後にフランスの書物の所へ出た時はちょうどベルリンから夜汽車でパリへ着いたというような心持ちがする。これはおそらくただ簡単に自分だけのある経験から生じる連想のためばかりではあるまい。ドイツ書の装幀《そうてい》なり印刷なりにはドイツ人のあらゆる歴史と切り離す事のできないものがあると同様にフランスの本にはどうしてもパリジアンとパリジェンヌのにおいが浮動している。たとえ一字も読めない人に見せてもこの著しい区別は感じられないではいられまい。自分はドイツで出版された仏文の本をもっている。かなりフランスくさくこしらえてあるが、しかしどう見てもそれはやはりドイツの本である。表紙に描かれた人物にもクラナッハやジュラーの影法師が見える。
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