観点と距離
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浜町《はまちょう》の明治座

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](昭和九年八月『文芸春秋』)
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 ある日、浜町《はまちょう》の明治座の屋上から上野公園を眺めていたとき妙な事実に気がついた。それは上野の科学博物館とその裏側にある帝国学士院とが意外に遠く離れて見えるということである。この二つの建築物の前を月に一度くらいは通るので、近くで見たときのこの二つの建物の距離というものについてはかなりに正確な概念をもっている、少なくもそのつもりでいたのであるが、今度はじめて約三キロメートル半の遠方から眺めてみると、この先入概念がすっかり裏切られてしまって、もう一度改めて科学博物館対帝国学士院の空間的関係というものを考え直さなければならないことになってしまった。
 どうしてこういう空間的認識の差違が起こるかと考えてみたがよく分らない。色々な原因があるであろうが、その一つとしてはあるいは次のようなことがありはしないか。すなわち、接近して仰向いて見る時には横幅に対して高さの方を大きく見積り過ぎるような傾向があって、そのために二つの高い建物の間隔がつまって見えるのではないかということである。これに反して遠方から見る場合にはもはやふり仰いで見る心持はなくなって、眼とほぼ同水平面にある視角の小さな物体を見ることになるので、それで上下と左右の比率が正しく認識されるのではないかというのである。この解釈は間違っているかもしれないが、しかしいくらかこれを支持するような事実が他にも若干ある。
 太陽や月の仰角を目測する場合に大抵高く見過ぎる。その結果として日出後または日没前の一、二時間には太陽が特別に早く動くような気がする。
 山の傾斜面でもその傾斜角を大きく見過ぎるのが通例である。
 これらと少し種類はちがうが、紙上に水平に一直線を描いて、その真中から上に垂直に同長の直線を立てると、その垂直線の方が長く見える。顔の長い人が鳥打帽を冠ると余計に顔が長く見えるという説があるが、これもなんだか関係がありそうである。
 芸術写真の一つの技巧として、風景などの横幅を縮め、従って、扁平な家を盛高く、低い森を高く見せてそれで一種の感じを出すのがある。あれなども、ユークリッド的に
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