は真実を曲げた嘘の写真であるが、心理的には却って真実に近くなるという場合もあるかもしれない。
画家のいわゆるデッサンが正しいとか正しくないとかというものも、やはりこういう意味で心理的に真実な描写をするという意味らしく思われる。これを極端までもって行くとカリカチュアが一番正確な肖像画になる勘定である。
これに聯関して思い合わされることは、人の容貌の肖似《しょうじ》ということについての人々の考えの異同である。例えば、甲某の眼にはA某とB某とが、よく似ているように見える。
ところが、乙某に云わせると、ちっとも似ていないじゃないかと云う。これは甲と乙とで着眼点がちがうためだと云えばそれまでである。すなわち甲にとってはAとBとの二人の顔の中で、例えば眼だけが注意の焦点となるのに、乙には眼はそんなに問題にならないで口許が特に大切な特徴となって印象される、という場合がそれである。しかしまたこういうこともあり得る。すなわち甲はAの眼を少し大きく見過ぎている代りにBの眼を少し小さく見過ぎている、そのために実際はかなりちがった大きさと形をしたABの眼が似ているように思われるということも可能である。
それからまたこんな場合もある。甲がAという異性の容貌に好悪いずれかの意味で特別な興味をもっているとする。しかし乙はAの顔になんらの興味をももっていないとする。そういう場合に、甲がBやCやDがAに似ていると云っても、乙が見るとちっとも似たところが見付からないであろう。
その場合には、甲の頭の中にはちゃんとAの鋳型《いがた》のようなものが出来ているので、BCDの中に、ちょっとでもAに似たところがあると、その点をつかまえて、Aの鋳型にあてがって、そうして他の部分をその型に鋳直してしまうらしい。
これとはまた全く別の事であるが、われわれが科学の研究に従事している際にある一つの現象と他の一つの現象との間に著しい形式的ないし本質的類似があると感じ、そうしてその類似を解説し、主張してみても、他の観点に立っている学者から見ると、一向にそんな類似関係が認められないという場合が往々ある。
それがために甲にとってはほとんど自明的と思われることが、乙にとっては全く問題にもならない寝言のように思われることもあるようである。
とにかく、見る眼の相違で同じものの長短遠近がいろいろになったり、二本の棒切れの
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