感覚と科学
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)杜絶《とぜつ》する

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(例)[#地から3字上げ](昭和八年八月、科学)
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 近代の物理科学は、自然を研究するための道具として五官の役割をなるべく切り詰め自然を記載する言葉の中からあらゆる人間的なものを削除する事を目標として進んで来た。そうしてその意図はある程度までは遂げられたように見える。この「anthropomorphism からの解放」という合い言葉が合理的でまた目的にかなうものだということは、この旗じるしを押し立てて進んで来た近代科学の収穫の豊富さを見ても明白である。科学はたよりない人間の官能から独立した「科学的客観的人間」の所得となって永遠の落ちつき所に安置されたようにも見える。
 われわれ「生理的主観的人間」は目も耳も指も切り取って、あらゆる外界との出入り口をふさいで、そうして、ただ、生きていることと、考えることとだけで科学を追究し、自然を駆使することができるのではないかという空想さえいだかせられる恐れがある。しかし、それがただの夢であることは自明的である。五官を杜絶《とぜつ》すると同時に人間は無くなり、従って世界は無くなるであろう。しかし、この、近代科学から見放された人間の感覚器を子細に研究しているものの目から見ると、これらの器官の機構は、あらゆる科学の粋を集めたいかなる器械と比べても到底比較にならないほど精緻《せいち》をきわめたものである。これほど精巧な器械を捨てて顧みないのは誠にもったいないような気がする。この天成の妙機を捨てる代わりに、これを活用してその長所を発揮するような、そういう「科学の分派」を設立することは不可能であろうか。こういう疑問を起こさないではいられないほどにわれわれの感覚器官はその機構の巧妙さによってわれわれを誘惑するのである。もしも、そういう学問の分派が可能だとすれば、それはどういう方面にその領域を求めるべきであろうか。この問題より前にまず五官による認識の本質的特徴に注目する必要がある。
 思うに五官の認識の方法は一面分析的であると同時にまた総合的である。たとえば耳は音響を調和分析にかける。そうして、めんどうな積分的計算をわれわれの無意識の間に安々と仕上げて、音の成分を認識すると同時に、
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