またそれを総合した和弦《かげん》や不協和音を一つの全体として認識する。また目は、たとえば、リヒテンベルグの陽像と陰像とを一瞬時に識別する。これを客観的に識別しようとすればめんどうな分析法によって多数の係数を算出し、さらにそれを統計にかけて表示しなければならない。さらにまた、盲人の触感は猫《ねこ》の毛の「光沢」を識別し、贋造紙幣《がんぞうしへい》を「発見」する。しかし、物の表面の「粗度」の物理的研究はまだ揺籃《ようらん》時代を過ぎない。これほどに有力な感官の分析総合能力が捨てて顧みられない一つの理由は、その与えるデータが数量的でないためである。しかし、数量的のデータを与える事が必ずしも不可能とは思われない。適当なスケールさえ作ればこれは可能になる。たとえばピアノの鍵盤《けんばん》や、オストワルドの色見本は、言わばそういう方向への最初の試歩である。金相学上の顕微鏡写真帳も、そういうスケールを作るための素材の堆積《たいせき》であるとも言われよう、もし、あの複雑な模様を調和分析にかけた上で、これにさらに統計的分析を加えれば、系統的な分類に基づくスケールを設定することも、少なくも原理的には可能である。これにやや近いものを求めれば、指紋鑑別のスケールのごときものがそれである。「あたわざるにあらず、成さざるなり」と言ってもさしつかえはないであろう。
それはとにかく、感官のもう一つの弱点は、個人個人による多少の差別の存在である。しかし、われわれは「考える器械」としての個人性を科学の上に認めている。「見る器械」、「聞く器械」としての優劣の存在を許容するのもやむを得まい。高価な器械を持つ人と、粗製の器械をもつ人との相違と本質的に同じとも言われる。多くのすぐれた器械の結果が互いに一致し、そうしてその結果が全系統に適合する時に、その結果を「事実」と名づけることがいけなければ、科学はその足場を失うであろう。
もう一つの困難は、感官の「読み取り」が生理的心理的効果と結びついて、いろいろな障害を起こす心配のあるということである。これはしかし、修練による人間そのものの進化によって救われないものであろうか、要するに観測器械としての感官を生理的心理的効果の係蹄《けいてい》から解放することが、ここに予想される総合的実験科学への歩みを進めるために通過すべき第一関門であろうと思われる。
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