は見てもくれない文章をかいたり絵をかいたりするのも、考えてみれば、やはりこの道路商人のひとり言と同じようなものである。[#地から1字上げ](大正十年十二月、渋柿)
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 宿屋や料理屋などの広告に、その庭園や泉石の風景をペンキ絵で描いた建て札のようなものが、よく田舎《いなか》の道ばたなどに立ててある。
 たとえば、その池などが、ちょっとした湖水ぐらいはありそうに描かれているが、実際はほんの金魚池ぐらいのものであったりする。
 ああいう絵をかく絵かきは、しかし、ある意味でえらいと思う。
 天然を超越して、しかもまたとにかく新しい現実を創造するのだから。[#地から1字上げ](大正十年十二月、渋柿)
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 暮れの押し詰まった銀座の街を、子供を連れてぶらぶら歩いていた。
 新年用の盆栽を並べた露店が、何軒となくつづいている。
 貝細工のような福寿草よりも、せせこましい枝ぶりをした鉢《はち》の梅よりも、私は、藁《わら》で束ねた藪柑子《やぶこうじ》の輝く色彩をまたなく美しいものと思った。
 まんじゅうをふかして売っている露店がある。
 蒸籠《せいろ》から出したばかりのまんじゅうからは、暖かそうな蒸気がゆるやかな渦《うず》を巻いて立ちのぼっている。
 私は、そのまんじゅうをつまんで、両の掌《てのひら》でぎゅっと握りしめてみたかった。
 そして子供らといっしょにそれを味わってみたいと思った。
 まんじゅうの前に動いた私の心の惰性は、ついその隣の紙風船屋へ私を導いて、そこで私に大きな風船玉を二つ買わせた。
 まんじゅうを食う事と、紙風船をもてあそぶ事との道徳的価値の差違いかんといったような事を考えながら、また子供の手をひいて暮れの銀座の街をぶらぶらとあてもなく歩いて行った。[#地から1字上げ](大正十一年二月、渋柿)
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 祖父がなくなった時に、そのただ一人の女の子として取り残された私の母は、わずかに十二歳であった。
 家を継ぐべき養子として、当時十八歳の父が迎えられる事になったが、江戸詰めの藩公の許可を得るために往復二か月を要した。
 それから五十日の喪に服した後、さらに江戸まで申請して、いよいよ家督相続がきまるまでにまた二か月かかった。
 一月二十七日に祖父が死んで、七月四日に家督が落ち着いたのだそうである。
 喪中は座敷に簾《すだれ》をたれて白日をさえぎり、高声に話しする事も、木綿車《もめんぐるま》を回すことさえも警《いまし》められた。
 すべてが落着した時に、庭は荒野のように草が茂っていて、始末に困ったそうである。[#地から1字上げ](大正十一年四月、渋柿)
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 安政時代の土佐の高知での話である。
 刃傷《にんじょう》事件に座して、親族立ち会いの上で詰め腹を切らされた十九歳の少年の祖母になる人が、愁傷の余りに失心しようとした。
 居合わせた人が、あわててその場にあった鉄瓶の湯をその老媼《ろうおう》の口に注ぎ込んだ。
 老媼は、その鉄瓶の底をなで回した掌で、自分の顔をやたらとなで回したために、顔じゅう一面にまっ黒い斑点ができた。
 居合わせた人々は、そういう極端な悲惨な事情のもとにも、やはりそれを見て笑ったそうである。[#地から1字上げ](大正十一年四月、渋柿)
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 子猫が勢いに乗じて高い樹のそらに上ったが、おりることができなくなって困っている。
 親猫が樹の根元へすわってこずえを見上げては鳴いている。
 人がそばへ行くと、親猫は人の顔を見ては訴えるように鳴く。
 あたかも助けを求めるもののようである。
 こういう状態が二十分もつづいたかと思う。
 その間に親猫は一、二度途中まで登って行ったが、どうすることもできなくて、おめおめとまたおりて来るのであった。
 子猫はとうとう降り始めたが、脚をすべらせて、山吹《やまぶき》の茂みの中へおち込んだ。
 それを抱き上げて連れて来ると、親猫はいそいそとあとからついて来る。
 そうして、縁側におろされた子猫をいきなり嘗《な》め始める。
 子猫は、すぐに乳房にしゃぶりついて、音高くのどを鳴らしはじめる。
 親猫もクルークルーと恩愛にむせぶように咽喉を鳴らしながら、いつまでもいつまでも根気よく嘗め回し、嘗めころがすのである。
 単にこれだけの猫のふるまいを見ていても、猫のすることはすべて純粋な本能的衝動によるもので、人間のすることはみんな霊性のはたらきだという説は到底信じられなくなる。[#地から1字上げ](大正十一年六月、渋柿)
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[#図2、挿し絵「庭の猫」]
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 平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。
 すると、ドイツ人はすぐに、発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張《しちょう》と上昇気流を利用するだけで上空を翔《か》けり歩く研究を始めた。
 最近のレコードとしては約二十分も、らくらくと空中を翔けり回った男がある。
 飛んだ距離は二里近くであった。
 詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。[#地から1字上げ](大正十一年八月、渋柿)
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 シヤトルの勧工場《かんこうば》でいろいろのみやげ物を買ったついでに、草花の種を少しばかり求めた。
 そのときに、そこの売り子が
「これはあなたにあげましょう。私この花がすきですから」
と言って、おまけに添えてくれたのが、珍しくもない鳳仙花《ほうせんか》の種であった。
 帰って来てまいたこれらのいろいろの種のうちの多くのものは、てんで発芽もしなかったし、また生えたのでもたいていろくな花はつけず、一年きりで影も形もなく消えてしまった。
 しかし、かの売り子がおまけにくれた鳳仙花だけは、実にみごとに生長して、そうして鳳仙花とは思われないほどに大きく美しく花を着けた。
 そうしてその花の種は、今でもなお、年々に裏庭の夏から秋へかけてのながめをにぎわすことになっている。
 この一|些事《さじ》の中にも、霊魂不滅の問題が隠れているのではないかという気がする。[#地から1字上げ](大正十一年十一月、渋柿)
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 切符をもらったので、久しぶりに上野音楽学校の演奏会を聞きに行った。
 あそこの聴衆席にすわって音楽を聞いていると、いつでも学生時代の夢を思い出すと同時にまた夏目先生を想い出すのである。
 オーケストラの太鼓を打つ人は、どうも見たところあまり勤めばえのする派手な役割とは思われない。
 何事にも光栄の冠を望む若い人にやらせるには、少し気の毒なような役である。
 しかし、あれは実際はやはり非常にだいじな役目であるに相違ない。
 そう思うと太鼓の人に対するある好感をいだかせられる。
 ロシニのスタバト・マーテルを聞きながら、こんなことも考えた。
 ほんとうのキリスト教はもうとうの昔に亡《ほろ》びてしまって、ただ幽《かす》かな余響のようなものが、わずかに、こういう音楽の中に生き残っているのではないか。[#地から1字上げ](大正十二年一月、渋柿)
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 大学の構内を歩いていた。
 病院のほうから、子供をおぶった男が出て来た。
 近づいたとき見ると、男の顔には、なんという皮膚病だか、葡萄《ぶどう》ぐらいの大きさの疣《いぼ》が一面に簇生《そうせい》していて、見るもおぞましく、身の毛がよだつようなここちがした。
 背中の子供は、やっと三つか四つのかわいい女の子であったが、世にもうららかな顔をして、この恐ろしい男の背にすがっていた。
 そうして、「おとうちゃん」と呼びかけては、何かしら片言で話している。
 そのなつかしそうな声を聞いたときに、私は、急に何物かが胸の中で溶けて流れるような心持ちがした。[#地から1字上げ](大正十二年三月、渋柿)
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 数年前の早春に、神田の花屋で、ヒアシンスの球根を一つと、チューリップのを五つ六つと買って来て、中庭の小さな花壇に植え付けた。
 いずれもみごとな花が咲いた。
 ことにチューリップは勢いよく生長して、色さまざまの大きな花を着けた。
 ヒアシンスは、そのそばにむしろさびしくひとり咲いていた。
 その後別に手入れもせず、冬が来ても掘り上げるだけの世話もせずに、打ち棄ててあるが、それでも春が来ると、忘れずに芽を出して、まだ雑草も生え出ぬ黒い土の上にあざやかな緑色の焔を燃え立たせる。
 始めに勢いのよかったチューリップは、年々に萎縮《いしゅく》してしまって、今年はもうほんの申し訳のような葉を出している。
 つぼみのあるのもすくないらしい。
 これに反して、始めにただ一本であったヒアシンスは、次第に数を増し、それがみんな元気よく生い立って、サファヤで造ったような花を鈴なりに咲かせている。
 そうして小さな花壇をわが物のように占領している。
 この二つの花の盛衰はわれわれにいろいろな事を考えさせる。[#地から1字上げ](大正十二年五月、渋柿)
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 鰻《うなぎ》をとる方法がいろいろある。
 筌《うえ》を用いるのは、人間のほうから言って最も受動的な方法である。
 鰻のほうで押しかけて来なければものにならない。
 次には、蚯蚓《みみず》の数珠《じゅず》を束ねたので誘惑する方法がある。
 その次には、鰻のいる穴の中へ釣り針をさしこんで、鰻の鼻先に見せびらかす方法がある。
 これらはよほど主動的であるが、それでも鰻のほうで気がなければ成立しない。
 次には、鰻の穴を捜して泥《どろ》の中へ手を突っ込んでつかまえる。
 これは純粋に主動的な方法である。
 最後に鰻掻《うなぎか》きという方法がある。
 この場合のなりゆきを支配するものは「偶然」である。[#地から1字上げ](大正十二年六月、渋柿)
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 無地の鶯茶《うぐいすちゃ》色のネクタイを捜して歩いたがなかなか見つからない。
 東京という所も存外不便な所である。
 このごろ石油ランプを探し歩いている。
 神田や銀座はもちろん、板橋|界隈《かいわい》も探したが、座敷用のランプは見つからない。
 東京という所は存外不便な所である。
 東京市民がみんな石油ランプを要求するような時期が、いつかはまためぐって来そうに思われてしかたがない。[#地から1字上げ](大正十二年七月、渋柿)

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(『柿の種』への追記) 大正十二年七月一日発行の「渋柿」にこれが掲載されてから、ちょうど二か月後に関東大震災が起こって、東京じゅうの電燈が役に立たなくなった。これも不思議な回りあわせであった。
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 本石町《ほんごくちょう》の金物店へはいった。
「開き戸のパタンパタン煽《あお》るのを止める、こんなふうな金具はありませんか。」
 おぼつかない手まねをしながら聞いた。
 主婦はにやにや笑いながら、「ヘイ、ございます。……煽り留めとでも申しましょうか。」
 出して来たボール箱には、なるほど、アオリドメと片仮名でちゃんと書いてあった。
 うまい名をつけたものだと感心した。
 物の名というものはやはりありがたいものである。
 おつりにもらった、穴のある白銅貨の二つが、どういうわけだか、穴に糸を通して結び合わせてあった。
 三越《みつこし》で買い物をした時に、この結び合わせた白銅を出したら、相手の小店員がにやにや笑いながら受け取った。
 この二つの白銅の結び合わせにも何か適当な名前がつけられそうなものだと思ったが、やはりなかなかうまい名前は見つからない。[#地から1字上げ](大正十二年八月、渋柿)
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