に終わる紳士淑女たちよりも、こういう死刑囚のほうがはるかに大きな功績を世界人類の知識の上に遺《のこ》したことになるともいわれるのである。[#地から1字上げ](昭和十年十月十四日)
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大きな百貨店へ行けば大概の品はいつでも調《ととの》えられるものと思っていたが、実際はなかなかそうでないという事を経験してきた。むしろ望みどおりの品のあったためしは少ないくらいである。
十月の初旬病床で暖かい日に蒲団の代わりにかけようと思って旅行用の夏の膝掛けを買いにやった。そうしたら、来年の夏まで待たなければ店には出ないといった。それから、夜中に肩の冷えるのを防ぐために鳥の羽根入りの肩蒲団を探しにやったら、もう一月くらいすれば出ますといったそうである。時候に合わない品だから無理もないが、しかし百貨店という所はやっぱり存外不便な所である。
もっとも、今ごろ本屋でスコットの「湖上の美人」やアーヴィングの「スケッチブック」やニーチェの「ツァラツーストラ」でも探すとしたらすぐに手に入るかどうか心もとないような気がする。マルクス、エンゲルスが同様な羽目になる時がいつかは来るかもしれないという気もするのである。[#地から1字上げ](昭和十年十月十四日)
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ある日電車の中で、有機化学の本を読んでいると、突然「琉球《りゅうきゅう》泡盛酒《あわもり》」という文字が頭の中に現われたが、読んでいる本のページをいくら探してもそんな文字は見つからなかった。よく考えてみると、たぶん途中で電車の窓から外をながめたときにどこかの店先の看板にでもそういう文字が眼についた、それを不思議な錯覚で書物の中へ「投げ込んだ」ものらしい。ちょうどその時に読んでいた所がいろいろなアルコールの種類を記述したページであったためにそういう心像の位置転換が容易にできたものと思われる。
人間の頭脳のたよりなさはこの一例からでもおおよそ想像がつく。何時《いつ》幾日《いくか》にどこでこういう事に出会ったとか、何という書物の中にどういう事があったとか、そういう直接体験の正直な証言の中に、現在の例と同じような過程で途方もないところから紛れ込んだ異物が少しもはいっていないという断定は、神様でないかぎりだれにもできそうにない。[#地から1字上げ](昭和十年十月十四日)
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ベルギー皇帝がただ一人で自動車を運転していて山の中の崖から墜落して崩御された。そのいたましい変事の記憶がまだ世人の記憶に新しいのに、今度はまた新しい皇帝が皇后とスイッツルの湖畔をドライブしていたとき、不慮の事故を起こして、そのために若く美しいアストリード皇后陛下はその場で崩御され皇帝も負傷され、ただうしろの座席に乗っかっていた運転手だけが不思議にかすり傷一つ負わなかった。
皇帝が前の座席の左側にすわってハンドルを握り、皇后はその右側にすわって一枚の地図を拡げ何か皇帝にお尋ねになると、皇帝は右を向いてその地図をのぞき込まれた、その瞬間に車の右の前輪が道の片側を仕切るコンクリートの低い土手の切れ目にひっかかった。そのはずみで土手を飛び越えて道の右側の斜面に走り込んだ車はその右の横腹を立ち樹にぶっつけて、ぐいと右に方向を転じ、その際に皇后は運悪く頭を立ち樹にぶっつけて即座に絶命すると同時に草原の上に投げ出された。車はさらに進んで第二の立ち樹にその左の横腹をぶっつけて傷ついた皇帝を投げ出した。そうしてずるずると斜面をころがりながら湖水のみぎわの葦《あし》の中へ飛び込んではじめてその致命的な狂奔を停止した。うしろにすわっていた運転手は咄嗟《とっさ》の出来事に茫然《ぼうぜん》としてどうすることもできなかった。道路をそれて樹にぶつかるまでの時間は一秒の十分の一にも足りない勘定になるので、まったく考えるよりも速い出来事だったに相違ない。そうして運転手が眼前の出来事を意識した瞬間にはもうすべてが終わっていたわけである。
これが昔の日本であったら、この二代続きの遭難はきっと何かしらもっともらしい迷信でつづられた因縁話の種を作ったかもしれない。
しかし因縁が全然無いこともない。それは先代の皇帝も今の皇帝も自分でハンドルを握って墜落の危険の絶無ではないような道路を走らせることに興味を持たれたという事がたしかに一つの必然な因縁でつながれているのである。すなわち一つの公算的な因果の現われだともいわれるであろう。[#地から1字上げ](昭和十年十月十五日)
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聯合艦隊が芝浦《しばうら》に集合して、昼は多勢の水兵が帝都の街頭に時ならぬユニフォームの花を咲かせ、夜は品川湾の空に光芒《こうぼう》の剣の舞を舞わせた。
この日病床で寝ていたらたくさんの飛行機が西の空から東へかけてちょうど蜻蛉《とんぼ》の群れのように、しかも物すごいうなり声を立てて飛んで行くのが縁側の障子のガラス越しにあざやかに見えた。
このページェントが非常時の東京市民にわが海軍の偉容を示して、心強さと頼もしさを吹き込むという効果を持ったであろうという事には少しの疑いはない。
しかし物は考えようである。私はこの百余台の飛行機の示威運動を病床からながめながら、もしかわが聯合艦隊の航空兵器の主力がたったこれだけのしかもあまり世界的に自慢のできない飛行機で代表されているのだとしたら、なんという心細いことであろうという気がした。そうして外国映画や絵入り雑誌の挿し絵で見る欧米列強の飛行隊の壮観を思い浮かべ、一方ではまたわが国の海軍飛行機のあまりにも頻繁《ひんぱん》な墜落事故の記録を胸算用でかぞえながら、なんとなく暗い気持ちにいざなわれるのであった。
これはおそらくその日の病苦のせいであったかもしれない。[#地から1字上げ](昭和十年十月十五日)
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蝶や鳥の雄が非常に美しい色彩をしているのは雌の視覚を喜ばせてその注意をひくためだというような説は事実に合わないものだということがいろいろの方面から説明されているようである。自分の素人《しろうと》考えではこの現象はあるいはむしろ次のように解釈さるべきものではないかと思う。
周囲の環境と著しく違った色彩はその動物の敵となる動物の注意をひきやすく従ってそうした敵の襲撃を受けやすいわけである。そういう攻撃を受けた場合にその危険を免れるためには感覚と運動の異常な鋭敏さを必要とするであろう。それで最も目立つ色彩をしていながら無事に敵の襲撃を免れて生き遺ることのできるような優秀な個体のみが自然淘汰の篩《ふるい》にかけられて選《よ》り残され、そうしてその特徴をだんだんに発達させて来たものではないか。
戦争好きで、戦争に強い民族なぞの発生にいくらかこれに似た選択過程が関係しているのではないかという気がする。[#地から1字上げ](昭和十年十月十六日)
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先ごろ警視庁で東京市のギャング狩りを行なったときに検挙された「街の紳士」たちの中に、杯やコップを噛み砕いてくちびるから赤い血を出して相手を縮みあがらせるというのがいた。この新聞記事を読んだとき私は子供の時分に見た「ガラスを食う山男」の見世物のことを思い出した。
高知の本町《ほんまち》に堀詰座《ほりづめざ》という劇場があった。そこの木戸口の内側に小さな蓆囲《むしろがこ》いの小屋をこしらえて、その中にわずかな木戸銭で入り込んだせいぜい十人かそこいらの見物のためにこの超人的演技を見せていたいわゆる山男というのはまだ三十にもならないくらいの小柄な赭《あか》ら顔《がお》の男であったが、白木綿の鉢巻でまっ黒に伸びた頭髪を箒《ほうき》のように縛り上げて、よれよれの縞《しま》の着物とたっつけ袴《ばかま》に草鞋《わらじ》がけといういでたちで、それにまっかな木綿の扱帯《しごき》のようなもので襷《たすき》がけをした、実に悲しくも滑稽《こっけい》にして颯爽《さっそう》たる風※[#「三の真ん中にたてぼう」、第3水準1−14−6]《ふうぼう》は今でも記憶に新たである。
なんでも蛇をかじって見せたり、うさぎの毛皮の一片を食いちぎって見せたりした。それからおしまいには大きなランプのホヤのこわれたのを取り出して、どんどんじゃんじゃんという物すごい囃子《はやし》に合わせてそれを見物の前に振り回して見せたあとで、そのホヤのガラスの一片を前歯で噛み折りそれをくちびるの間に含んで前につき出し両手を広げて目をむき出し物すごいみえをきった。かけらがくちびるからひっこんだと見ると急に四股《しこ》を踏むようなおおぎょうな身振りをしながらばりばりとそのガラスを噛み砕く音を立て始めた。赭ら顔がいっそう朱を注いだように赭くなって、むき出した眼玉が今にも飛び出すかと思われた。
噛み砕く音がだんだんに弱く細かくなって行った。やがて噛み砕いたものを呑み下したと思うと、大きな口をかっと開いて見物席の右から左へと顔をふり向けながら、口中にもはや何にも無いという証拠を見せるのであった。その時に山男の口中がほんとうに血のようにまっかであったように記憶している。
この幼時に見た珍しい見世物の記憶が、それから三十余年後に自分が胃潰瘍《いかいよう》にかかって床についていたときに、ふいと忘却の闇から浮かび上がって来た。
あの哀れな山男は、おそらくあれから一、二年とはたたない間に消化器の潰瘍にかかってみじめな最期を遂げたに違いない。言わば、生きるためにガラスを食って自殺を遂げたようなものである。
街の紳士の場合もいくらかこれと似たところがあるかもしれない。[#地から1字上げ](昭和十年十月十六日)
底本:「柿の種」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年4月16日第1刷発行
1997(平成9)年10月15日第9刷
底本の親本:「寺田寅彦全集 第十一巻」岩波書店
1961(昭和36)8月7日第1刷発行
※無題の短章の冒頭に添えられている「花のようなマーク」は、「*」で代えた。
※「十四、五」「二、三」など、連続する数字をつなぐ際に底本が用いている半角の読点は、全角に変えた。
※底本の編集にあたっては、親本に加えて、「柿の種」小山書店、1946(昭和21)年、第12刷、「栃の実」小山書店、1936(昭和11)年も参照されている。
※「自序」から「曙町より(十一)」までは「柿の種」に、その他は「栃の実」に集録された作品である。
入力:山口美佐
校正:田中敬三
2003年7月2日作成
2005年10月29日修正
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