、渋柿)
[#改ページ]
*
一日忙しく東京じゅうを駆け回って夜ふけて帰って来る。
寝静まった細長い小路を通って、右へ曲がって、わが家の板塀《いたべい》にたどりつき、闇夜の空に朧《おぼろ》な多角形を劃するわが家の屋根を見上げる時に、ふと妙な事を考えることがある。
この広い日本の、この広い東京の、この片すみの、きまった位置に、自分の家という、ちゃんときまった住み家があり、そこには、自分と特別な関係にある人々が住んでいて、そこへ、今自分は、さも当然のことらしく帰って来るのである。
しかし、これはなんという偶然なことであろう。
この家、この家族が、はたしていつまでここに在《あ》るのだろう。
ある日、一日留守にして、夜おそく帰って見ると、もうそこには自分の家と家族はなくなっていて、全く見知らぬ家に、見知らぬ人が、何十年も前からいるような様子で住んでいる、というような現象は起こり得ないものだろうか、起こってもちっとも不思議はないような気がする。
そんな事を考えながら、門をくぐって内へはいると、もうわが家の存在の必然性に関する疑いは消滅するのである。[#地から1字上
前へ
次へ
全160ページ中55ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング