柿)
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   曙町より(七)


 毎朝通る路次に小さなせいぜい二|室《へや》ぐらいの家がある。主人は三十五、六ぐらいの男だが時間のきまった勤めをもつ人とも見えず、たとえば画家とか彫刻家とでもいったような人であるらしい。それは表札が家不相応にしゃれた篆刻《てんこく》で雅号らしい名を彫り付けてあるからである。六、七年ほど前からポインター種の犬を飼っている。ほんの小さな小犬であったのが今では堂々としてしかもかわいい良い犬である。僕の記憶ではこの小犬とほぼ前後して細君らしい婦人がこの家に現われて、門口で張り物をしたり、格子戸《こうしど》の内のカナリアにえさをやったり、※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓《れんじまど》の下の草花に水をやったりしていた。犬の大きくなるにつれてこの細君がだんだんに肥満して二、三年前にはどうしても病気としか思われない異常の肥《ふと》り方を見せていたが、そのころからふっつりその姿が見えなくなって、そのかわりに薄汚い七十近いばあさんが門口でカナリアや草花の世話をしていた。どうも細君が大病かあるいは亡《な》くなったのではないかと思われたのであるが、犬のジョンだけは相変わらずいつものどかな勇ましい姿をして顔なじみの僕の通るのを見迎え見送るのであった。去年の夏この家からは数町を距《へだ》てたある停留所で電車を待っていた時に、向かい側の寄席《よせ》のある路次から、ひょっくり出て来た恐ろしくふとった女があると思って見ると、それが紛れもないジョンの旧主婦であった。
 去年の暮れ近いころからジョンの家の門口でまた若い婦人が時々張り物をしたりバケツをさげたりしているのを見かけるようになった。今度は前よりはもっとほっそりしたインテリジェントな顔をした婦人であった。ジョンジョンと言って呼ばれると犬は喜んで横飛びに飛んで行って彼女の前垂《まえだれ》に飛びついていたのである。ところが、つい二、三日前に通りかかった時に門口で張り物をしている婦人を見ると、年齢や脊恰好は同じだが、顔はこのあいだじゅう見たのとどうしても別人のように思われた。なんだか少し僕にはわけがわからなくなって来た。しかしわが親愛なるジョン公だけは、相変わらずそんなことには無関心のように堂々とのどかなあくびをして二月の春光をいっぱいに吸い込んでいるのであった。
 人間はまったくおせっかいである。[#地から1字上げ](昭和七年三月、渋柿)
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   曙町より(八)


 二女の女学校卒業記念写真帳と、三女のそれとを較べて見ていると、甲の女学校の生徒の顔には、おのずから共通なあるものがあり、乙の女学校には、また乙の女学校特有のあるものがあるような気がして来る。
 不思議なようでもあり、また当然だという気もする。
 日本人と朝鮮人との顔の特徴にしてもやはり同様にして発達したものであろう。
 ただ、女学校では、わずか五年の間の環境の影響で、すでにこれだけの効果が現われる。
 恐ろしいものである。
 レストーランで昼食をしていると、隣の食卓へお上《のぼ》りさんらしい七、八人の一行が陣取った。
 いずれも同年輩で、同じようないがぐりあたまが、これはまた申し合わせたように同じ程度にはげているのである。
ある学科関係の学者の集合では、かなり年寄りも多いのに一人も禿頭《とくとう》がいない。
 また別の学会へ行くと若い人まで禿頭が多い。
 これも不思議である。[#地から1字上げ](昭和七年五月、渋柿)
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   曙町より(九)


 白木屋《しろきや》七階食堂で、天ぷらの昼飯を食っていた。
 隣の席に、七十余りのおばあさんが、これは皿の中のビーフカツレツらしいものを、両手に一つずつ持った箸《はし》の先で、しきりにつっついているが、なかなか思うようにちぎれない。
 肉がかたくて、歯のない口では噛めないらしい。
 通りがかりの女給を呼んで何か言っている。
 そうして、箸で僕の膳《ぜん》の上の天ぷらを指ざし、また自分の皿の上の肉を指ざし、そうして皿をたたきながら何かしら不平を言っているようである。
 女給は困った顔をして、もじもじしている。
 僕はすっかり気の毒になって、よっぽど自分の皿の上の一尾の海老《えび》を取ってこの老人の皿の上に献じたいという力強い衝動を感じたが、さてどうもいよいよとなると、周囲の人に気兼ねして、つい実行の勇気を出しかねた。
 やがて老人は長い杖《つえ》をついて立ち上がったが、腰は海老のように曲がっていた。
 僕はその時なんとなく亡き祖母や母のことを思い出すと同時に、食堂の広い窓から流れ込む明るい初夏の空の光の中に、一抹《いちまつ》の透明な感傷のただようのを感じた。
 食卓の島々の中をくぐって遠ざかる老人の後ろ姿をながめ
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