チューインガムを尊崇することと、ロシア式イデオロギーを噛んで喜ぶこととは、全く縁のないことでもないかと思われた。
 それから三、四列前の腰掛けに、中年のインテリ奥様とでも言われそうなのが二人、それはまた二人おそろいでキャラメルらしいもの――噛み方でわかる――を噛んでいるのが、ちょっとおもしろい対照をなしていた。
 イデオロギーに砂糖がはいっているのである。
 芝居(?)「恐山鉱山《おそれやまこうざん》」を少し見てから降参して出てしまった。
 恐ろしいものである。
 今度会った時に話しましょう。[#地から1字上げ](昭和六年九月、渋柿)
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   曙町より(五)


 僕はこのごろ、ガラス枚を、鋼鉄の球で衝撃して、割れ目をこしらえて、その割れ方を調べている。
 はなはだばかげたことのようであるが、やってみるとなかなかおもしろいものである。
 ごく軽くたたいて、肉眼でやっと見えるくらいの疵《きず》をつけて、それを顕微鏡でのぞいて見ると、球の当たった点のまわりに、円形の割れ目が、ガラスの表面にできて、そこから内部へ末拡がりに、円錐形《えんすいけい》のひびが入っているが、そのひび破《わ》れに、無数の線条が現われ、実にきれいなものである。
 おもしろいことには、その円錐形のひびわれを、毎日のように顕徴鏡でのぞいて見ていると、それがだんだんに大きなものに思われて来て、今では、ちょっとした小山のような感じがする。
 そうしてその山の高さを測ったり、斜面の尾根や谿谷を数えたりしていると、それがますます大きなものに見えて来るのである。
 実際のこの山の高さは一|分《ぶ》の三十|分《ぶん》の一よりも小さなものに過ぎない。
 この調べが進めば、僕は、ひびを見ただけで、直径幾ミリの球が、いくらの速度で衝突したかを言いあてることができるであろうと思う。
 それを当てたらなんの役に立つかと聞かれると少し困るが、しかし、この話が、何か君の俳諧哲学の参考にならば幸いである。
 今まで、まだやっと二、三百枚のガラス板しかこわしていないが、少なくも二、三千枚ぐらいはこわしてみなければなるまいと思っている。
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粟《あわ》一粒秋三界を蔵しけり[#地から1字上げ](昭和六年十一月、渋柿)
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   曙町より(六)


 小宮《こみや》君は葡萄一株拾ったそうだが、僕は小鳥を一羽拾った。
 このあいだかなり寒かった朝、日の当たった縁側に一羽のカナリヤが来て、丸くふくれ上がって、縁の端の敷居につかまっていた。
 人を見ても逃げもせず、かえって向こうから近寄って来た。
 どこかにしまってあるはずの鳥籠を探しているうちに、見えなくなったと思ったら、納戸《なんど》の中へはいり込んでいた。
 籠に入れてから、さっそく粟を買って来て、それを餌函《えばこ》に入れてやろうとしていると、もう籠の中からそれを見つけてしきりに啼き立て、早くくれとでもいうように見えた。
 菜っ葉をやると、さもうまそうについばんでは、くちばしを止まり木にこすりつけた。
 日向《ひなた》につるしてやると朗らかに鳴きだしたが、声を聞いてみると立派なローラーである。
 猫の「ボウヤ」が十月に死んでから、妙にさびしくなった家が、これでまた急ににぎやかになったような気がして、それからは、毎朝新しい菜っ葉をやっては、玉をころがすような朗らかなワーブリングを聞くのが楽しみであった。
 ところが、今朝家人がえさを取り替える際に、ちょっとの不注意で、せっかくのこの楽しみを再び空に遁《にが》してしまった。
 惜しいというよりはかわいそうな気がした。
 夕方家へ帰って見ると、見馴れぬ子猫が一匹いる。
 死んだ「ボウヤ」にそっくりの白い猫である。
 今朝、どこからか迷って来たのが、もうすっかりなついてしまって、落ち着いているのだそうである。
 それを聞いた時に、ちょっと不思議な気がした。
 どうも以前に一度、やはり小鳥が死ぬか逃げるかした同じ日に、子猫が迷い込んで来たことがあったような記憶がある。それと同じ出来事が、今日再び繰り返して起こったような気がするのである。
 しかし、どうもはっきりしたことが思い出せない。
 あるいはよくあるそういう種類の錯覚かもしれない。
 拾ったと思ったら無くする、無くしたと思ったらもう拾っている。
 おもしろいと思えばおもしろく、はかないと言えばはかなくもある。
 この猫をひざへのせて夕刊を読んでいたら号外が来て、後継内閣組織の大命が政友会総裁に降《くだ》ったとある。犬養《いぬかい》さんは総理大臣を拾ったのである。
 遁《に》げたカナリヤもだれかに拾われなければ餓え死ぬか凍え死ぬだろうと思う。[#地から1字上げ](昭和七年一月、渋
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