ていたら、「樹《き》静かならんとすれど風やまず……」という、あの小学読本で教わった対句がふいと想い出された。
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参らせん親は在《おわ》さぬ新茶哉[#地から1字上げ](昭和七年七月、渋柿)
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   曙町より(十)


 プラタヌスの樹蔭で電車を待っていると、蕎麦《そば》の出前を持った若い娘が、電柱に寄せかけてあった自転車を車道へ引き出した。
 右の手は出前の盆を高くさし上げたまま、左の手をハンドルにかけ、左の足をペダルに掛けて、つっと車を乗り出すと同時にからだを宙に浮かせ、右脚を軽く上げてサドルに腰をかけようとしたが、軽い風が水色模様の浴衣《ゆかた》の裾《すそ》を吹いて、その端が危うくサドルに引っかかりそうになった。
 まっ白な脛《はぎ》がちらりと見えた。
 女は少しも騒がないで、巧みに車のつりあいを取りながら、静かに右脚をもう一遍地面に下ろした。
 そうして、二度目には、ひらりと軽く乗り移ると同時に、車輪は静かにすべるように動きだした。
 そうして、電車線路を横切って遠ざかって行った。
 ちょっと歌麿の絵を現代化した光景であった。
 朱塗りの出前の荷と、浴衣の水色模様は、この木版画を生かすであろうと思った。
 これとは関係のないことであるが、「風流」という言葉の字音が free, frei, franc などと相通ずるのはおもしろいと思う。
 実際、風流とは心の自由を意味すると思われるからである。[#地から1字上げ](昭和七年九月、渋柿)
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   曙町より(十一)


「墨流し」の現象を、分子物理学的の方面から、少しばかり調べてみていたら、だんだんいろいろのおもしろいことがわかって来た。
 それで、墨の製法を詳しく知りたくなって、製造元を詮議《せんぎ》してみると、日本の墨の製造所は、ほとんど全部奈良にあることがわかった。
 一方で、鐘に釁《ちぬ》るというシナの故事に、何か物理的の意味はないかという考えから、実験をしてみたいと思って、半鐘の製造所を詮議すると、それがやはり奈良県だということがわかった。
 こんなことがわかったころに、ちょうど君は奈良ホテルに泊まって鹿の声を聞いていたのである。
 今年今月は不思議に奈良に縁のある月であった。
 奈良へ出かけなければならないことになるかもしれない。[#地から1字上げ](昭和七年十二月、渋柿)
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   曙町より(十二)


 今日神田の三省堂《さんせいどう》へ立ち寄って、ひやかしているうちに、「性的犯罪考」という本が見当たったので、気まぐれの好奇心から一本を求めた。
 それから、暇つぶしに、あの脊の高い書架の長城の城壁の前をぶらぶら歩いているうちに、「随筆」と札のかかった区劃の前に出た。
 脊の低い、丸顔の、かわいい高等学校の生徒が一人、古風な薩摩絣《さつまがすり》の羽織に、同じ絣の着物を着たのが、ひょいと右手を伸ばしたと思って、その指先の行くえを追跡すると、それが一直線に安倍《あべ》君著「山中雑記」の頭の上に到達した。
 おやと思っているうちに、手早く書架からそれを引っこ抜いてから、しばらく内容を点検していたが、やがて、それをそっと元の穴へ返した、と思うと、今度は、すぐ左隣の「藪柑子集《やぶこうじしゅう》」を抽き出して、これもしばらくページをめくっていたが、やがてまた元の空隙《くうげき》へ押しこんだ。
 そうして、次にはそれから少しはなれて、十四、五冊くらいおいた左のほうへと移って行った。
 正月の休みに郷里帰省中であったのが、親父《おやじ》からいくらかもらって、ややふところを暖かくして出京したばかりらしいから、どちらか一冊ぐらいは買うかな、と思って見ていたが、とうとう失敬して行き過ぎてしまった。
 もっとも、あるいはそれからまたもう一遍立ち帰ったかどうか、そこまでは見届けないからわからない。
 それはどうでもいいが、とにかく安倍君というものと、自分というものとが、このかわいい学生の謙譲なる購買力の前で、立派な商売敵《しょうばいがたき》となって対立していた瞬間の光景に、偶然にもめぐり合わせたのであった。
 それよりも、もしあの学生が「藪柑子集」を読んだとしたら、その内容から自然に想像するであろうと思われる若い昔の藪柑子君の面影と、今ここで、水ばなをすすりながら「性的犯罪考」などをあさっている年取った現在の自分の姿との対照を考えると、はなはだ滑稽でもあり、また少しさびしくもあった。
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哲学も科学も寒き嚔《くさめ》哉[#地から1字上げ](昭和八年二月、渋柿)
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   曙町より(十三)


 デパートなどで、時たま、若い年ごろの娘の
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