昭和四年九月、渋柿)
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       *

 大震災の二日目に、火災がこの界隈《かいわい》までも及んで来る恐れがあるというので、ともかくも立ち退きの準備をしようとした。
 その時に、二匹の飼い猫を、だれがいかにして連れて行くかが問題となった。
 このごろ、ウェルズの「空中戦争」を読んだら、陸地と縁の切れたナイアガラのゴートアイランドに、ただ一人生き残った男が、敵軍の飛行機の破損したのを繕《つくろ》って、それで島を遁《に》げ出す、その時に、島に迷って饑《う》えていた一匹の猫を哀れがっていっしょに連れて行く記事がある。
 その後に、また同じ著者の「放たれた世界」を読んでいると、「原子爆弾」と称する恐るべき利器によって、オランダの海をささえる堤防が破壊され、国じゅう一面が海になる、その時、幸運にも一|艘《そう》の船に乗り込んで命を助かる男がいて、それがやはり居合わせた一匹の迷い猫を連れて行く、という一くだりが、ほんの些細《ささい》な挿話として点ぜられている。
 この二つの挿話から、私は猫というものに対するこの著者の感情のすべてと、同時にまた、自然と人間に対するこの著者の情緒のすべてを完全に知り尽くすことができるような気がした。[#地から1字上げ](昭和四年十一月、渋柿)
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       *

 上野|松坂屋《まつざかや》七階食堂の食卓に空席を捜しあてて腰を下ろした。
 向こう側に五、六歳の女の子、その右側には三十過ぎた母親、左側には六十近いおばあさんが陣取っている。
 純下町式の三つのジェネレーションを代表したような連中である。
 老人は「幕の内」、母子《おやこ》はカツレツである。
 母親が給仕にソースを取ってくれと命ずると、おばあさんが意外にも敏捷《びんしょう》に腕を延ばして、食卓のまん中にあったびんを取っておかみさんの皿の前へ立てた。
「ヤーイ、オバアちゃんのほうがよく知ってら。」
 私が刹那《せつな》に感じたと全く同じ事を、子供が元気よく言い放って、ちょこなんと澄ましている。
 母親はかえってうれしそうに
「ほんとう、ねええ。」
 そんな相槌《あいづち》を打って皿の中の整理に忙しい。
 おばあさんの顔と母親の顔とがよく似ているところから見ると、これはおかみさんが子供をつれての買い物のついでに、里の母親を誘って食堂をふれまうという場面らしい。
「お汁粉《しるこ》取りましょうか、お雑煮《ぞうに》にしましょうか。」
「もうたくさんです。」
「でも、なんか……。」
 こんな対話が行なわれる。
 こんな平凡な光景でも、時として私の心に張りつめた堅い厚い氷の上に、一|掬《きく》の温湯《ゆ》を注ぐような効果があるように思われる。
 それほどに一般科学者の生活というものが、人の心をひからびさせるものなのか、それともこれはただ自分だけの現象であるのか。
 こんなことを考えながら、あの快く広い窓のガラス越しに、うららかな好晴の日光を浴びた上野の森をながめたのであった。[#地から1字上げ](昭和五年一月、渋柿)
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       *

「三毛《みけ》」に交際を求めて来る男猫《おとこねこ》が数匹ある中に、額に白斑《しろぶち》のある黒猫で、からだの小さいくせに恐ろしく慓悍《ひょうかん》なのがいる。
 これが、「三毛」の子で性質温良なる雄の「ボウヤ」を、女敵《めがたき》のようにつけねらって迫害し、すでに二度も大けがをさせた。
 なんとなく斧定九郎《おのさだくろう》という感じのする猫である。
 夜の路次《ろじ》などで、この猫に出逢うと一種の凄味《すごみ》をさえ感じさせられる。
 これと反対に、すこぶる好々爺《こうこうや》な白猫がやって来る。
 大きな顔に不均整な黄斑が少しあるのが、なんとなく滑稽味《こっけいみ》を帯びて見える。
「ボウヤ」は、この「オジサン」が来ると、喜んでいっしょについてあるくのである。
 今年の立春の宵に、外から帰って来る途上、宅《うち》から二、三丁のある家の軒にうずくまっている大きな白猫がある。
 よく見ると、それはまさしくわが親愛なる「オジサン」である。
 こっちの顔を見ると、少し口を開《あ》いて、声を出さずに鳴いて見せた。
「ヤア、……やっこさん、ここらにいるんだね。」
 こっちでも声を出さずにそう言ってやった。
 そうして、ただなんとなくおかしいような、おもしろいような気持ちになって、ほど近いわが家へと急いだのであった。
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淡雪や通ひ路細き猫の恋[#地から1字上げ](昭和五年三月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
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[#図7、挿し絵「猫」]
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       *

 桜の静かに散る夕、うちの二人の女の子が二重唱をうたっている。
 名高
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