つの面を定める。
しかし、この乙丙の面は、甲乙の面とは同平面ではなくて、ある角度をしている、すなわち面が旋転したのである。
次に、丁がまた丙の線の続きを引く。
アンド・ソー・オン。
長、短、長短、合計三十六本の線が春夏秋冬|神祇《じんぎ》釈教《しゃっきょう》恋《こい》無常《むじょう》を座標とする多次元空間に、一つの曲折線を描き出す。
これが連句の幾何学的表示である。
あらゆる連句の規約や、去嫌《さりきらい》は、結局この曲線の形を美しくするために必要なる幾何学的条件であると思われる。[#地から1字上げ](昭和四年一月、渋柿)
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石器時代の末期に、銅の使用が始まったころには、この新しい金属材料で、いろいろの石器の形を、そっくりそのままに模造していたらしい。
新しい素材に、より多く適切な形式を発見するということは、存外容易なことではないのである。
また、これとは反対に、古い形式に新しい素材を取り入れて、その形式の長所を、より多く発揮させることもなかなかむずかしいものである。
詩の内容素材と形式との関係についても、同様なことが言われる。[#地から1字上げ](昭和四年三月、渋柿)
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二年ばかり西洋にいて、帰りにアメリカを通って、大きな建築などに見馴れて、日本へ帰った時に、まず横浜の停車場の小さいのに驚き、汽車の小さいのに驚き、銀座通りの家屋の低く粗末なのに驚いた。
こんなはずではなかったという気がした。
これはだれもよくいう事である。
ヴァイオリンをやっていたのが、セロを初めるようになって、ふた月三月ヴァイオリンには触れないで、毎日セロばかりやっている。
そして、久しぶりでヴァイオリンを持ってみると、第一その目方の軽いのに驚く。
まるで団扇《うちわ》でも持つようにしか感ぜられない。
楽器が二、三割も小さく縮まったように思われ、かん所を押える左手の指と指との間が、まるでくっついてしまうような気がする。
そういう異様な感じは、いつとなく消えてしまって、ヴァイオリンはヴァイオリン、セロはセロとおのおのの正当な大きさの概念が確実に認識されて来るのである。
俳句をやる人は、時には短歌や長詩も試み、歌人詩人は俳句もやってみる必要がありはしないか。[#地から1字上げ](昭和四年五月、渋柿)
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一日忙しく東京じゅうを駆け回って夜ふけて帰って来る。
寝静まった細長い小路を通って、右へ曲がって、わが家の板塀《いたべい》にたどりつき、闇夜の空に朧《おぼろ》な多角形を劃するわが家の屋根を見上げる時に、ふと妙な事を考えることがある。
この広い日本の、この広い東京の、この片すみの、きまった位置に、自分の家という、ちゃんときまった住み家があり、そこには、自分と特別な関係にある人々が住んでいて、そこへ、今自分は、さも当然のことらしく帰って来るのである。
しかし、これはなんという偶然なことであろう。
この家、この家族が、はたしていつまでここに在《あ》るのだろう。
ある日、一日留守にして、夜おそく帰って見ると、もうそこには自分の家と家族はなくなっていて、全く見知らぬ家に、見知らぬ人が、何十年も前からいるような様子で住んでいる、というような現象は起こり得ないものだろうか、起こってもちっとも不思議はないような気がする。
そんな事を考えながら、門をくぐって内へはいると、もうわが家の存在の必然性に関する疑いは消滅するのである。[#地から1字上げ](昭和四年七月、渋柿)
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あたりが静かになると妙な音が聞こえる。
非常に調子の高い、ニイニイ蝉《ぜみ》の声のような連続的な音が一つ、それから、油蝉《あぶらぜみ》の声のような断続する音と、もう一つ、チッチッと一秒に二回ぐらいずつ繰り返される鋭い音と、この三つの音が重なり合って絶え間なく聞こえる。
頸を左右にねじ向けても同じように聞こえ、耳をふさいでも同じように聞こえる。
これは「耳の中の声」である。
平生は、この声に対して無感覚になっているが、どうかして、これが聞こえだすと、聞くまいと思うほど、かえって高く聞こえて来る。
この声は、何を私に物語っているのか、考えてもそれは永久にわかりそうもない。
しかし、この声は私を不幸にする。
もし、幾日も続けてこの声を聞いていたら、私はおしまいには気が狂ってしまって、自分で自分の両耳をえぐり取ってしまいたくなるかもしれない。
しあわせなことには、わずらわしい生活の日課が、この悲運から私を救い出してくれる。
同じようなことが私の「心の中の声」についても言われるようである。[#地から1字上げ](
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