かし、それからまたくるりと右へ回って同じ挙動を繰り返すのである。
生きた人間の運動と器械人形の運動との相違を、かなり本質的につかんでいるのは、さすがに役者である。
たとえば手の運動につれて、帽子がある位置に来て、その重心が支点の直上に来るころ、不安定平衡の位置を通るときに、ぐらぐらと動揺したりする、そういう細かいところの急所をちゃんと心得ている。
もちろんこの役者は物理学者ではないし、自働人形の器械構造も知らないであろうが、しかし彼の観察の眼は科学者の眼でなければならない。
人形の運動はすべて分析的である。総合的ではない。
たいていの人間は一種のアウトマーテンである。
あらゆる尊敬すべききまじめなひからびた職業者はそうである。
そうでないものは、英雄と超人と、そうして浮気な道楽者の太平の逸民とである。
俳諧の道は、われわれをアウトマーテンの境界から救い出す一つの、少なくも一つの道でなければならない。[#地から1字上げ](昭和三年五月、渋柿)
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梨《なし》の葉に黄色い斑《ふ》ができて、毛のようなものが簇生《そうせい》する。
自分は子供の時から、あれを見るとぞっと寒気がして、そして自分の頬からこめかみへかけて、同じような毛が生えているような気がして、思わず頬をこすらないではいられない。
このごろ庭の楓樹《かえで》の幹に妙な寄生物がたくさん発生した。
動物だか植物だかわからない。
蕈《きのこ》のような笠《かさ》の下に、まっ白い絹糸のようなものの幕をたれて、小さなテントの恰好をしている。
打っちゃっておけば、樹幹はだんだんにこのために腐蝕されそうである。
これを発見した日の晩に、ふと思い出すと同時に、これと同じものが、自分の腕のそこやかしこにできていそうな気がして、そしてそれが実際できているありさまをかなりリアルに想像して、寝つかれなくて困った。
人の悪事を聞いたり読んだりして、それが自分のした事であるような幻覚を起こして、恐ろしくなるのと似た作用であるかもしれない。
そして、これは、われわれにとって、きわめてだいじな必要な感応作用であるかもしれない。[#地から1字上げ](昭和三年七月、渋柿)
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始めて両国《りょうごく》の川開きというものを見た。
河岸《かし》に急造した桟敷《さじき》の一隅《いちぐう》に席を求め、まずい弁当を食い、気の抜けたサイダーを呑《の》み、そうしてガソリン臭い川風に吹かれながら、日の暮れるのを待った。
全く何もしないで、何も考えないで、一時間余りもポカンとして、花火のはじまるのを待っているあほうの自分を見いだすことができたのは愉快であった。
附近ではビールと枝豆がしきりに繁昌《はんじょう》していた。
日が暮れて、花火がはじまった。
打ち上げ花火はたしかに芸術である。
しかし、仕掛け花火というものは、なんというつまらないものであろう。
特に往生ぎわの悪さ、みにくさはどうであろう。
「ざまあみろ。」
江戸ッ子でない自分でもこう言いたくなる。
一つ驚いた事を発見した。
それはマクネイル・ホイッスラーという西洋人が、廣重《ひろしげ》よりも、いかなる日本人よりも、よりよく隅田川《すみだがわ》の夏の夜の夢を知っていたということである。[#地から1字上げ](昭和三年九月、渋柿)
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芸術は模倣であるというプラトーンの説がすたれてから、芸術の定義が戸惑いをした。
ある学者の説によると、芸術的制作は作者の熱望するものを表現するだけでなく、それを実行することだそうである。
この説によって、試みに俳句を取り扱ってみると、どういうことになるであろうか。
恋の句を作るのは恋をすることであり、野糞《のぐそ》の句を作るのは野糞をたれる事である。
叙景の句はどういう事になるか。
それは十七字の中に自分の欲する景色を再現するだけではいけなくて、その景色の中へ自分が飛び込んで、その中でダンスを踊らなくては、この定義に添わないことになる。
これも一説である。
少なくも古来の名句と、浅薄な写生句などとの間に存する一の重要な差別の一面を暗示するもののようである。
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客観のコーヒー主観の新酒|哉《かな》[#地から1字上げ](昭和三年十一月、渋柿)
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甲が空間に一線を劃する。
乙がそれに続けて少し短い一線を画く。
二つの線は互いにある角度を保っているので、これで一つの面が定まる。
次に、丙がまた乙の線の末端から、一本の長い線を引く。
これは、乙の線とある角度をしているので、乙丙の二線がまた一
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