装身具を見て歩くことがある。コートとか帯とか束髪用の櫛《くし》とか、そういうものを見るときに、なんだか不思議なさびしさを感じることがある。自分の二人の娘は当人たちの好みで洋服だけしか着ない。髪も断髪であるから、こういう装身具に用はないのである。
 しかし、それなら、もしも娘たちが和服も時々は着て、そうして髪も時々は島田にでも結うのであったら、父なる自分ははたしてこれらの装身具をどれだけ喜んで買ってやることができるであろうか。こう考えてみると、さらにいっそうさびしい想いがするのである。[#地から1字上げ](昭和八年四月、渋柿)
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   曙町より(十四)


 三越新館に熱帯魚の展覧会があった。水を入れたガラス函《ばこ》がいくつも並んでいる。底に少しばかり砂を入れていろいろ藻《も》が植えてある。よく見ると小さな魚がその藻草の林間を逍遥《しょうよう》している。瑪瑙《めのう》で作ったような三分《ぶ》ぐらいの魚もある。碧瑠璃《へきるり》で刻んだようなのもいる。紫水晶でこしらえたようなのもある。それらの小さな魚を注意して仔細《しさい》に観察していると魚がとりどりに大きく見えて来る。同時にその容器のガラス函の中の空間が大きくなって来て、深い海底の光景が展開される。見ている自分が小さくなってしまって潜水衣を着て水底にもぐっているような気がして来る。
 天使魚《エンゼルフィッシュ》という長い鰭《ひれ》をつけた美しい魚がある、これは他の魚に比べて大きいので容器が狭すぎて窮屈そうで気の毒である。囚《とら》われた天使は悲しそうにじっとして動かない。
 水槽《すいそう》に鼻をさしつけてのぞいている人間の顔を魚が見たらどんなに見えるであろう。さだめて恐ろしく醜怪な化け物のように見える事であろう。見物人の中には美人もいた。人間の美人の顔が魚の眼にはどう見えるかが問題である。[#地から1字上げ](昭和八年六月、渋柿)
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   曙町より(十五)


 僕のふきげんな顔は君にも有名である。
 三越の隣の刃物屋の店先に紙製の人形が、いつ見ても皮砥《かわと》で剃刀《かみそり》をといでいる。いつ見ても、さもきげんがよさそうに若い血色のいい顔を輝かして往来の人々に公平に愛嬌《あいきょう》を放散している。朝から晩まで、夏でも冬でも、雨が降っても風が吹いても、いつでもさもさもきげん
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