がよさそうに、せっせと皮砥をかけている。うらやましいような気もする。しかし僕は人形ではない。生きているのだからしかたがない。ゆるしてくれたまえ。
このごろは毎朝床の中で近所のラジオ体操を聞く。一、二、三、四、五、六の掛け声のうちで「ゴー」だけが特別に高く、長く飛びぬけて聞こえる。この「ゴー」の掛け声が妙に気になる。妙に気恥ずかしくて背中がくすぐったくなるような声である。「ゴッ」と短く打ち切ってもらいたい。
僕も毎朝ラジオ体操がやれるようなほがらかな気分になれれば、そうしたら、きっといつもきげんのいい顔をお目にかけることができるかもしれない。[#地から1字上げ](昭和八年八月、渋柿)
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曙町より(十六)
八月十五日に浅間山《あさまやま》観測所の落成式があった。その時に、開所後は入場券を売って公衆の観覧を許すという話が出て、五銭の入場券が五百枚売れたら切符売りの月給ぐらいはできそうだというような取りざたをした。十九日に再び安倍君や子供を連れて見物に行ったら、なるほど観測所の玄関にちゃんと切符売りの婦人が控えていた。帰京してから研究所の食堂でその話をしたら、その切符売りの婦人こそは浅間火口に投身しようとしたのを、峯《みね》の茶屋《ちゃや》の主人が助けて思い止まらせ、そうして臨時の切符係に採用したのだということであった。やはり東京のカフェーかバーにいた女だそうでそれからまもなく帰京したとのことである。そんな事とは知らないから別に注意して見なかったが、とにかくも三十恰好の女で、そう言えばどこか都会人らしい印象があったようには思うが顔は思い出せない。
この科学的なインスチチュートのメンバーとして、そういうロマンチックな婦人がたとえ数日の間でも働いていたということは、浅間山という特異な自然現象と関聯してはじめて生じうる特異な人事現象でなければならない。
入場券は半月ほどの間に千七百枚とか売れたそうである。
浅間の火口に投身した人の数は今年の夏も相当にあった。しかし三原山《みはらやま》のは新聞に出るが、浅間のは出ない。ジャーナリズムというものを説明する場合の一つのよい引用例になると思う。[#地から1字上げ](昭和八年十月、渋柿)
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曙町より(十七)
せんだって「煙草《たばこ》に関する展覧会」というのが、三越の四階に開
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