るようである。
 クローズアップのガルボの顔のいろいろの表情を交互に映出するしかたなどでもかなりうまい。
 言わばそこにほんとうの「表情の俳諧」があるように思う。
 一度御覧いかがや。ついでながらこのガルボという女はどこか小でまりの花の趣もあると思うがこの点もいかがや。
 新劇「レ・ミゼラブル」は、見ないけれども、おそらくたった一口で言えるようなスローガンを頑強にべたべたと打ち出したものかと思う。
 少なくとも、これにはおそらくどこにも「俳諧」は見いだす事ができないだろう、と想像される。[#地から1字上げ](昭和六年二月、渋柿)
[#改ページ]

   曙町より(二)


 先日は失礼。
 鉄筋コンクリートの三階から、復興の東京を見下ろしての連句三昧《れんくざんまい》は、変わった経験であった。
 ソクラテスが、籠《かご》にはいって吊り下がりながら、天界の事を考えた話を思い出した。
 日が暮れた窓から、下町の照明をながめていたら、高架電車の灯《ひ》が町の灯の間を縫うて飛ぶのが、妙な幻想を起こさせた。
 自分がただ一人さびしい星の世界のまん中にでもいるような気がした。
 今朝も庭の椿《つばき》が一輪落ちていた。
 調べてみると、一度うつ向きに落ちたのが反転して仰向きになったことが花粉の痕跡からわかる。
 測定をして手帳に書きつけた。
 このあいだ、植物学者に会ったとき、椿の花が仰向きに落ちるわけを、だれか研究した人があるか、と聞いてみたが、たぶんないだろうということであった。
 花が樹にくっついている間は植物学の問題になるが、樹をはなれた瞬間から以後の事柄は問題にならぬそうである。
 学問というものはどうも窮屈なものである。
 落ちた花の花粉が落ちない花の受胎に参与する事もありはしないか。
「落ちざまに虻《あぶ》を伏せたる椿哉」という先生の句が、実景であったか空想であったか、というような議論にいくぶん参考になる結果が、そのうちに得られるだろうと思っている。
 明日は金曜だからまた連句を進行させよう。[#地から1字上げ](昭和六年五月、渋柿)
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   曙町より(三)


 君の、空中飛行、水中潜行の夢の話は、その中にむせっぽいほどに濃艶《のうえん》なる雰囲気を包有している。
 これに対する、僕のさびしいミゼラブルな夢の一つを御紹介する。
 それは「さまよえ
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