ころのものであったような気がする。
「趣味の遺伝」もなんだかこれに聯関したところがあるような気がするが、これも覚えちがいかもしれない。
 それはとにかく、この問題の婦人の顔がどこかレニのマリアにも、レーノルズの天使や童女にも、ロゼチの細君や妹にも少しずつ似ていたような気がするのである。
 しかし、一方ではまた、先生が好きであったと称せらるる某女史の顔は、これらとは全くタイプのちがった純日本式の顔であった。
 また「鰹節屋《かつぶしや》のおかみさん」というのも、下町式のタイプだったそうである。
 先生はある時、西洋のある作者のかいたものの話をして「往来で会う女の七十プロセントに恋するというやつがいるぜ」と言って笑われた。
 しかし、今日になって考えてみると、先生自身もやはりその男の中に、一つのプロトタイプを認められたのではなかったかという気もするのである。[#地から1字上げ](昭和六年一月、渋柿)
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[#図8、挿し絵「窓」]
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   曙町より(一)


 先夜はごちそうありがとう。
 あの時、床の間に小手鞠《こでまり》の花が活かっていたが、今日ある知人の細君が来て、おみやげに同じ小でまりとカーネーションをもらった。
 そうして、新築地劇団の「レ・ミゼラブル」の切符をすすめられ、ともかくも預かったものの、あまり気がすすまないので、このほうは失礼して邦楽座の映画を見に行った。
 グレタ・ガルボ主演の「接吻《せっぷん》」というのを見たが、編輯《へんしゅう》のうまいと思うところが数箇所あった。
 たとえば、惨劇の始まろうとする始めだけ見せ、ドアーの外へカメラと観客を追い出した後に、締まった扉だけを暫時《ざんじ》見せる。
 次には電話器だけが大写しに出る。
 それが、どうしたのかと思うほど長く写し出される。
 これはヒロインの※[#「足へん+厨」、第3水準1−92−39]躇《ちゅうちょ》の心理を表わすものであろう。
 実際に扉の中で起こったはずの惨劇の結果――横たわる死骸――は、後巻で証拠物件を並べた陳列棚の中の現場写真で、ほんのちらと見せるだけである。
 もっとも、こんなふうな簡単に説明できるような細工にはほんとうのうまみはないので、この映画の監督のジャック・フェイダーの芸術は、むしろ、こんなふうには到底説明する事のできないような微細なところにあ
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