かし、それからまたくるりと右へ回って同じ挙動を繰り返すのである。
生きた人間の運動と器械人形の運動との相違を、かなり本質的につかんでいるのは、さすがに役者である。
たとえば手の運動につれて、帽子がある位置に来て、その重心が支点の直上に来るころ、不安定平衡の位置を通るときに、ぐらぐらと動揺したりする、そういう細かいところの急所をちゃんと心得ている。
もちろんこの役者は物理学者ではないし、自働人形の器械構造も知らないであろうが、しかし彼の観察の眼は科学者の眼でなければならない。
人形の運動はすべて分析的である。総合的ではない。
たいていの人間は一種のアウトマーテンである。
あらゆる尊敬すべききまじめなひからびた職業者はそうである。
そうでないものは、英雄と超人と、そうして浮気な道楽者の太平の逸民とである。
俳諧の道は、われわれをアウトマーテンの境界から救い出す一つの、少なくも一つの道でなければならない。[#地から1字上げ](昭和三年五月、渋柿)
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梨《なし》の葉に黄色い斑《ふ》ができて、毛のようなものが簇生《そうせい》する。
自分は子供の時から、あれを見るとぞっと寒気がして、そして自分の頬からこめかみへかけて、同じような毛が生えているような気がして、思わず頬をこすらないではいられない。
このごろ庭の楓樹《かえで》の幹に妙な寄生物がたくさん発生した。
動物だか植物だかわからない。
蕈《きのこ》のような笠《かさ》の下に、まっ白い絹糸のようなものの幕をたれて、小さなテントの恰好をしている。
打っちゃっておけば、樹幹はだんだんにこのために腐蝕されそうである。
これを発見した日の晩に、ふと思い出すと同時に、これと同じものが、自分の腕のそこやかしこにできていそうな気がして、そしてそれが実際できているありさまをかなりリアルに想像して、寝つかれなくて困った。
人の悪事を聞いたり読んだりして、それが自分のした事であるような幻覚を起こして、恐ろしくなるのと似た作用であるかもしれない。
そして、これは、われわれにとって、きわめてだいじな必要な感応作用であるかもしれない。[#地から1字上げ](昭和三年七月、渋柿)
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始めて両国《りょうごく》の川開きというものを見た。
河岸《かし》に急造
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