した桟敷《さじき》の一隅《いちぐう》に席を求め、まずい弁当を食い、気の抜けたサイダーを呑《の》み、そうしてガソリン臭い川風に吹かれながら、日の暮れるのを待った。
全く何もしないで、何も考えないで、一時間余りもポカンとして、花火のはじまるのを待っているあほうの自分を見いだすことができたのは愉快であった。
附近ではビールと枝豆がしきりに繁昌《はんじょう》していた。
日が暮れて、花火がはじまった。
打ち上げ花火はたしかに芸術である。
しかし、仕掛け花火というものは、なんというつまらないものであろう。
特に往生ぎわの悪さ、みにくさはどうであろう。
「ざまあみろ。」
江戸ッ子でない自分でもこう言いたくなる。
一つ驚いた事を発見した。
それはマクネイル・ホイッスラーという西洋人が、廣重《ひろしげ》よりも、いかなる日本人よりも、よりよく隅田川《すみだがわ》の夏の夜の夢を知っていたということである。[#地から1字上げ](昭和三年九月、渋柿)
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芸術は模倣であるというプラトーンの説がすたれてから、芸術の定義が戸惑いをした。
ある学者の説によると、芸術的制作は作者の熱望するものを表現するだけでなく、それを実行することだそうである。
この説によって、試みに俳句を取り扱ってみると、どういうことになるであろうか。
恋の句を作るのは恋をすることであり、野糞《のぐそ》の句を作るのは野糞をたれる事である。
叙景の句はどういう事になるか。
それは十七字の中に自分の欲する景色を再現するだけではいけなくて、その景色の中へ自分が飛び込んで、その中でダンスを踊らなくては、この定義に添わないことになる。
これも一説である。
少なくも古来の名句と、浅薄な写生句などとの間に存する一の重要な差別の一面を暗示するもののようである。
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客観のコーヒー主観の新酒|哉《かな》[#地から1字上げ](昭和三年十一月、渋柿)
[#ここで字下げ終わり]
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甲が空間に一線を劃する。
乙がそれに続けて少し短い一線を画く。
二つの線は互いにある角度を保っているので、これで一つの面が定まる。
次に、丙がまた乙の線の末端から、一本の長い線を引く。
これは、乙の線とある角度をしているので、乙丙の二線がまた一
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