道ばたの崖《がけ》の青芒《あおすすき》の中に一本の楢《なら》の木が立っている。
その幹に虫がたくさん群がっている。
紫色の紋のある美しい蝶《ちょう》が五、六羽、蜂が二種類、金亀子《こがねむし》のような甲虫《こうちゅう》が一種、そのほかに、大きな山蟻《やまあり》や羽蟻《はあり》もいる。
よく見ると、木の幹には、いくつとなく、小指の頭ぐらいの穴があいて、その穴の周囲の樹皮がまくれ上がりふくれ上がって、ちょうど、人間の手足にできた瘍《よう》のような恰好《かっこう》になっている。
虫類はそれらの穴のまわりに群がっているのである。
人間の眼には、おぞましく気味の悪いこの樹幹の吹き出物に人間の知らない強い誘惑の魅力があって、これらの数多くの昆虫をひきよせるものと見える。
私は、この虫の世界のバッカスの饗宴を見ているうちに、何かしら名状し難い、恐ろしいような物すごいような心持ちに襲われたのであった。[#地から1字上げ](大正十二年九月、渋柿)
[#改ページ]
*
震災の火事の焼け跡の煙がまだ消えやらぬころ、黒焦げになった樹の幹に鉛丹《えんたん》色のかびのようなものが生え始めて、それが驚くべき速度で繁殖した。
樹という樹に生え広がって行った。
そうして、その丹色《にいろ》が、焔にあぶられた電車の架空線の電柱の赤さびの色や、焼け跡一面に散らばった煉瓦や、焼けた瓦の赤い色と映《は》え合っていた。
道ばたに捨てられた握り飯にまでも、一面にこの赤かびが繁殖していた。
そうして、これが、あらゆる生命を焼き尽くされたと思われる焦土の上に、早くも盛り返して来る新しい生命の胚芽の先駆者であった。
三、四日たつと、焼けた芝生《しばふ》はもう青くなり、しゅろ竹や蘇鉄《そてつ》が芽を吹き、銀杏《いちょう》も細い若葉を吹き出した。
藤や桜は返り花をつけて、九月の末に春が帰って来た。
焦土の中に萌《も》えいずる緑はうれしかった。
崩れ落ちた工場の廃墟《はいきょ》に咲き出た、名も知らぬ雑草の花を見た時には思わず涙が出た。[#地から1字上げ](大正十二年十一月、渋柿)
[#改ページ]
*
震災後の十月十五日に酒匂川《さかわがわ》の仮橋を渡った。
川の岸辺にも川床にも、数限りもない流木が散らばり、引っかかっていた。
それが、大きな樹も小さな
前へ
次へ
全80ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング