ひびかぬ動作とひびく動作がある。それでこの特別な筋が平生いかなる動作にいかなる程度に動員されているかということが実によくわかった。健康な場合には到底わからないことである。物の効用は、それが失われてみて始めてよくわかるという一例である。
すわったり腰かけたりして、物を書こうとするとやはりこの筋肉が引きつって痛む。
物を書くのには頭と眼と手だけでいいと思っていたのは誤りであった。書くという仕事にはやっぱり「腹」や「腰」も入用なのである。意外な「発見」であった。
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からだの自由に動かせない病気で十日も寝ているとむやみにかんしゃくが起こっておもしろい。今朝は呼び鈴のコードを手近に置くべきのをだれかが遠くに押しのけてあったので大声でオーイオーイと呼んだが階下にいる五人のだれにも聞こえない。臥床《ふしど》の脇に置いてあるステッキでやけに障子や敷居をたたいて呼んでもまだ聞こえない。障子と敷居をいいかげん疵《きず》だらけにしたころに、細君が上がって来た。
「お隣に大工さんが来て仕事しているのだと思った」そうである。
子供の時分に親戚《しんせき》や知人の家に中気《ちゅうき》でからだの不随な老人がいて、よくかんしゃくをおこしているのを見た。家族はもうすっかり馴れっ子になってほどよくあしらっているだけである。それがまたいっそう老人の不満をつのらせるらしかった。
今度の病気で昔の中風老人たちを想い出して、この天下に普遍な家庭小悲喜劇の心理分析を試みる機会を得た。
亡友K君が眼病で手術をして一時失明したことがあった。かんしゃくが起こりはしないかと聞いたら、それどころか反対に一生懸命細君にもその他の家族にも従順にしてきげんをそこねないようにしているという。どうしてかと聞くと、もしや今家族に見放されたらたいへんだという気がして、自然にそうなるのだということであった。
自分の場合のかんしゃくは結局、病気がたいした事でないという潜在的な自覚から、いくらやんちゃを言っても家族が大丈夫|遁《に》げ出さないという自負心を獲得しているせいかもしれない。
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明治時代の青年における「星」「すみれ」の流行と近代ボーイにおけるマルキシズムのそれとはその原動力となる情熱の感傷的な点ではほとんど大差ないもののような気がする。ただ理論
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