この柔らかい絹蒲団というやつはいくら下からはね上げておいてもちょうど飴《あめ》か餅《もち》かのようにじりじりと垂れ落ちて来て、すっかりからだを押えつけあらゆるすきまを埋めてしまう。それでちょっとでも身動きしようとするとこの飴が痛むからだには無限の抵抗となって運動を阻止する。蠅取《はえと》り紙《がみ》にかかった蠅の気持ちはこんなものかという気がする。
 天網のごとく、夢魔のごとく、運命の神のごとく恐ろしいものは絹蒲団である。[#地から1字上げ](昭和十年十一月、渋柿)
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   短章 その二

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 美人と言えば女に限るようである。美醜は男をスペシファイする属性にならぬと見える。甘い辛いが絵の具の区別に役立たぬように。
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 宅《うち》の前に風呂屋ができて、いろいろな迷惑を感ずることがある。しかし、どんな悪いことにでも何かしら善いことがある。第一には、宅へ始めて尋ねて来る人にはこの風呂屋の高い煙突を目当てにして来るように教えるとわかりが早い。それから、第二には夜の門前が明るくなって泥坊《どろぼう》の徘徊《はいかい》には不便である。第三には、この風呂屋ができてから門前に近く新たに消火栓が設けられた。もっとも、これは近くに高官の邸宅があるおかげかもしれない。
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 睡蓮《すいれん》の花は昔から知っている。しかし、この花が朝開いて午後に睡《ねむ》るということは、今年自分の家でつくってみて始めて知った。睡蓮という名の所由がやっとわかったのである。水蓮などという当て字をかく人のあるのを見ると、これは自分だけの迂闊《うかつ》でもないらしい。人間ののんきさかげんがこんなことからもわかる。しかしまた人間の世智辛さがこれでわかる、とも言われるであろう。
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 三原山の投身者の記事が今日新聞紙上に跡を絶たない。よく聞いてみると、浅間山にもかなり多数の投身者があるそうであるが、このほうは新聞に出ない。ジャーナリズムという現象の一例である。
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「陸相官邸にて割腹」という大きな見出しの新聞記事がある。陸相が割腹したのかと思うと、陸相の官邸でだれかが割腹したのである。日本語の不完全を巧みに利用したジャ
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