るのではないかと想像していた。ところが十三回十四回頃からロスの身体の構えに何となく緩みが見え、そうして二人が腕と腕を搦《から》み合っているときにどうもロスの方が相手に凭《もた》れかかっていたがるような気配が感ぜられたので、これは少しどうもロスの方が弱ったのではないかと思って見ていた。
最後にデンプシーの審判で勝負が決まった時|介添《かいぞえ》に助けられて場の中央に出て片手を高く差上げ見物の喝采に答えた時、何だか介添人の力でやっと体と腕を支えているような気がした。これに反してマックの方は判定を聞くと同時にぽんと一つ蜻蛉返《とんぼがえ》りをして自分の隅へ帰ったようであった。つまりそれだけの体力の余裕を見せたかったのではないかと思われる。それで自分にはどうもロスの勝利というのが呑込めなかったが、テクニックを知らないからだろうと思っていた。後で物言いがあったということをプログラムで読んでやっぱりそうかと思った。
三 別れの曲
ショパンがパリのサロンに集まった名流の前で初演奏をしようとする直前に、祖国革命戦突発の飛報を受取る。そうして激昂する心を抑えてピアノの前に坐り所定曲目モザルトの一曲を弾いているうちにいつか頭が変になって来て、急に嵐のような幻想曲を弾き出す、その狂熱的な弾奏者の顔のクローズアップに重映されて祖国の同志達の血潮に彩られた戦場の光景が夢幻のごとくスクリーンの面を往来する。
これは別に映画では珍しくもない技巧であるが、しかしこの場合にはこの技巧が同時に聞かせる音楽と相待ってかなりな必然性をもって使用されており、これによってこうした発声映画にのみ固有な特殊の効果を出している。眼前を過ぎる幻像を悲痛のために強直した顔の表情で見詰めながら、さながら鍵盤にのしかかるようにして弾いているショパンの姿が、何か塹壕《ざんごう》から這い出して来る決死隊の一人ででもあるような気がするのである。
リストが音楽商の家の階段を気軽にかけ上がって、ピアノの譜面台の上に置き捨てられたショパンの作曲に眼をつけて、やがて次第に引入れられて弾き初める、そこへいったん失望して帰りかけたショパンがそっと這入って来て、リストと背中合せに同じ曲を弾き出す場面には一種の俳諧を感ぜられて愉快である。
この種類の映画で吾々に特に興味のあるのは、従来はただ書物や少数の絵画版画などを通じて窺《うかが》っていた「昔の西洋」が吾々の眼前に活きて進行することである。「駅逓馬車《ポストクツチエ》」による永い旅路の門出の場面などでも、こうした映画の中で見ていると、いつの間にか見ている自分が百年前のワルシャウの人になってしまう。そうして今までに読んだ物語や伝記の中の色々の類似の場面などが甦って眼前に活動するような気がする。そういう意味でジョルジュ・サンドやデューマやバルザックなどの出て来る社交場の光景なども面白い。たとえその描写がどんなに史実的に間違っていても、それが上記のような幻想を起しさえすればそれでこの映画は成効しているであろう。
この映画にはうるさいところやしつっこいところがなくてよい。やはり俳諧のわかるフランス人の作品である。
四 紅雀
年を取った独身の兄と妹が孤児院の女の児を引取って育てる。その娘が大きくなって恋をする、といったような甘い通俗的な人情映画であるが、しかし映画的の取扱いがわりにさらさらとして見ていて気持のいい、何かしら美しい健全なものを観客の胸に吹き込むところがある。一体こうした種類の映画はもっともっと多く作られてよいものであろうと思われる。
とにかく、これでもかこれでもかと眼新しい趣向を凝らして人性の自然を極度に歪曲したものばかり見せられている際に、たまたまこういう人間らしい平凡な情味をもった童話的なものに出会うと清々しい救われたような気持がするから妙である。
五 泉
童話的な「紅雀《べにすずめ》」に対照すると「泉」は比較にならぬほど複雑で深刻な事件とその心理とを題材として取扱っているから、もし成効すれば芸術的に高級なものになり得るはずであるが、同時にこれを娯楽のための映画として観ると、観たあとの気持はあまり健全な愉快なものではないはずである。
「泉」は多くこの種の映画と同じように甘いと辛いとの中間を行っている。それだけに肩も凝らないがまたどっちもつかずで物足りない気もする。
汽車の中で揺られている俘虜《ふりょ》の群の紹介から、その汽車が停車場へ着くまでの音楽と画像との二重奏がなかなくうまく出来ている。序幕としてこんなに渾然《こんぜん》としたものは割合に少ないようである。
不幸な夫ルパートが「第三者」アリスンの部屋から二階の妻ジュリーの部屋への隠れた通い路を発見して、暗い階段をびっこ引き
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