である。ことによると、こうした種類のものがかえって「いわゆる抽象映画」などよりももっと抽象的な、そうして純粋に映画的な映画であるのかもしれないというふうに思われて来るのである。

     十四 「黒鯨亭」

 エミール・ヤニングス主演のこの映画は、はじめからおしまいまで、この主役者の濃厚な個性でおおい尽くされた地色の上に適当な色合いを見計らった脇役《わきやく》の模様を置いた壁掛けのようなものである。もっとも同じくヤニングスのものであっても相手役にディートリヒとかアンナ・ステンとかがいる場合は必ずしもそうはならないようであるが、この現在の場合における助演者はこのように主演者と対立して二重奏を演ずるためにはあまりに影が薄いようである。
 そのかわりにまたこの映画は「ヤニングスの芝居」を見ようと思う観客にとっては、最も多くの満足を与えるようにできているのかもしれない。たとえば家出して船乗りになった一人むすこからの最初の手紙が届いたときに、友だちの手前わざとふくれっ面《つら》をして見せたり、居間へ引っ込んでからあわててその手紙を読もうとしてめがねを落として割ったりする場面の彼一流の細かい芸は
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