の音がはっきり耳に聞こえるような気がした。よく注意してみると、窓の外の街上を走る電車の騒音の中に含まれているどんどんというような音を自分の耳が抽出し拾い上げて、それを眼前の視像の中に都合よく投げ込んでいたものらしい。
 同様に笛を吹く場面でもかすかに笛の音らしいものが聞かれた。これは映写機のモーターの唸音《ハミング》の中から格好な楽音だけをわれわれの耳に特有な抽出作用によって選び出し、そうして視覚から来る連想の誘引に応じてスクリーンの上に投射したものらしい。
 最近にはまた上記のものとは種類のちがった珍しい錯覚を経験した。それはこうである。ベルクナー主演の「女の心」(原名アリアーネ)の一場面で食卓の上にすみれの花を満載した容器が置いてある、それをアリアーネが鼻をおっつけて香をかいだりいじり回したりするのであるが、はじめは自分にはそれがなんだかよくわからなくて、葡萄《ぶどう》でも盛ったくだもの鉢《ばち》かと思っていた。そのうちに女がまたこれをいじりながらひとり言のように言ったその言葉ではじめてそれがすみれだとわかった。おかしいことには「ファイルシェン」という言葉が耳にはいってこの花の視像
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