険な光景を映し出して、その中で電話工夫を活躍させている。それからまた犯人と目星をつけた女の居所を捜すのに電話番号簿を片端からしらみつぶしに呼び出しをかける場面などもやはり一つの思いつきである。
こうした趣向の新しさを競う結果は時にいろいろな無理を生じる。たとえば大地震で大混乱を生じている同じ町の警察のあたりでは何事もなかったらしいようなおかしい現象を生じている。
それでも事件の展開が簡単でなくて、一つの山から次の山へと移って行く道筋が容易には観客の予測を許さない、というだけのはたらきのあるのは、近ごろのこうしたアメリカ映画に普通である。はじめからおしまいの見すかされているような映画ばかり作る日本映画作者の参考になるであろうと思われる。
[#地から3字上げ](昭和十年四月、渋柿)
十二 映画錯覚の二例
塚本閤治《つかもとこうじ》氏撮影の小型映画を見た時の話である。たしか富士吉田町《ふじよしだまち》の火祭りの光景を写したものの中に祭礼の太鼓をたたく場面がある。そのとき、もちろん無声映画であるのにかかわらず、不思議なことには、画面に写し出された太鼓のばちの打撃に応じて太鼓
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