には到底考えつかないような新しいアイディアがいくらも浮かびそうなものだと思われるがそうした実例が日本映画のおびただしい作品の中にいっこうに見られないのは残念な事である。それでたとえば昔、広重《ひろしげ》や歌麿《うたまろ》が日本の風土と人間を描写したような独創的な見地から日本人とその生活にふさわしい映画の新天地を開拓し創造するような映画製作者の生まれるまでにはいったいまだどのくらいの歳月を待たなければならないか、今のところ全く未知数であるように見える。そこへ行くと、どうもアメリカの映画人のほうがよほど進んでいるといわれても弁明のしようがないようである。これは自分が平常はなはだ遺憾に思っている次第である、日本がアメリカに負けているのは必ずしも飛行機だけではないのである。このひけ目を取り返すには次のジェネレーションの自覚に期待するよりほかに全く望みはないように見える。
[#地から3字上げ](昭和十年二月、高知新聞)

     六 麦秋

 だいぶ評判の映画であったらしいが、自分にはそれほどおもしろくなかった。それは畢竟《ひっきょう》、この映画には自分の求めるような「詩」が乏しいせいであって、そういうものをはじめから意図しないらしい作者の罪ではないようである。自分の目にはいわば一つの共産労働部落といったようなものに関する「思考実験」の報告とでもいったようなものが全編の中に織り込まれているように思われる。それでそういう事に特に興味のある人たちにはその点がおもしろいのかもしれないが主として詩と俳諧《はいかい》とを求めるような観客にとっては、何かしらある問題を押し売りされるような気持ちがつきまとって困るようである。
 二マイルも離れた川から水路を掘り通して旱魃地《かんばつち》に灌漑《かんがい》するという大奮闘の光景がこの映画のクライマックスになっているが、このへんの加速度的な編集ぶりはさすがにうまいと思われる。
 ただわれわれ科学の畑のものが見ると、二マイルもの遠方から水路を導くのに一応の測量設計もしないでよくも匆急《そうきゅう》の素人仕事《しろうとしごと》で一ぺんにうまく成効したものだという気がした。また「麦秋」という訳名であるが、旱魃で水をほしがっているあの画面の植物は自分にはどうも黍《きび》か唐黍《とうきび》かとしか思われなかった。
 主人公の「野性的好男子」もわれらのよ
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