がある。この映画では光の線条が映写幕上で音楽に合わせて踊りをおどる。これと、前述のようなレヴュー映画の場合に生きた人間で作った行列の線の運動し集散するのとを比較して見ると、本質的に全く共通なものがある。ただ相違の点は、一方ではそれ自身には全く無意味な光った線が踊り子の役をつとめているのに、他方では一人一人に生きた個性をもった人間の踊り子が画面ではほとんどその個性を没却して単に無意味な線条を形成している、というだけである。
 それだのに、純粋な線条の踊りは一般観客にはさっぱり評価されないようである一方でレヴューのほうは大衆の喝采《かっさい》を博するのが通例であるらしい。ここに映画製作者の前に提出された一つの大きな問題があると思われる。
 あまりに抽象的で特殊な少数の観客だけにしか評価されないようなものは結局映画館と撮影所とを閉鎖の運命に導く役目しか勤めない。しかし、また一方、大衆にわかりやすい常套手段《じょうとうしゅだん》をいつまでも繰り返しているのでは飽きやすい世間からやがて見捨てられるという心配に断えず脅かされなければならない。その困難を切り抜けるためには何かしら絶え間なく新しい可能性を捜し出してはそれをスクリーンの上に生かすくふうをしなければならない。幸いなことには、映画という新しいメジウムの世界には前人未到の領域がまだいくらでも取り残されている見込みがある。そうした処女地を探険するのが今の映画製作者のねらいどころであり、いわば懸賞の対象でなければならない。それでたとえばアメリカ映画における前述のレヴューの線条的あるいは花模様的な取り扱い方なども、そうした懸賞問題への一つの答案として見ることもできる。そうして、それに対して「踊る線条」のような抽象映画は一つの暗示として有用な意義をもちうるわけである。少なくもこういう見地からこれらの二種の映画をながめてそれぞれの存在理由を認めることもできそうである。
 新しい考えの生まれるためには何かしら暗示が必要である。暗示の種は通例日常われわれの面前にころがっている。しかし、それを見つけるにはやはり見つけるだけの目が必要であることはいうまでもない。
 日本には西洋とちがった環境があり、日本人には日本人の特有な目があるのであるからもし日本の映画製作者がほんとうの日本人としての自分自身の目を開いてわれわれの環境を物色したら、西洋人
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