すぎて倦怠《けんたい》を招く箇所が少なくない。
 この映画のストーリーの原作では、たしか、最後に忠犬が猛獣を倒して自分もその場で命をおとすようなことになっているかと思う。それが映画ではハッピー・エンドになっている。たぶんこうしなければ一般観客のうけが悪いからであろう。しかしこのことは映画と小説との区別に関して一つの根本的な問題を暗示する。
 小説では忠犬を「殺す」ほうが得策であるのに映画では殺さないほうが得策だとすれば、それはいったいどこからそういう差別が生じるかということである。そこに小説と映画との本質的な差別の目標の一つを探り出す糸口がありはしないか。
 一つには、小説と映画では相手にする大衆の素質、顧客の層序において若干の異同のあることも事実であろう。しかしそれよりも大切なことは、映画の写し出す視覚的影像の喚起する実感の強度が、文字の描き出す心像のそれに比較して著しく強いという事実がこの差別を決定する重要な因子になるのではないかと思われる。
 忠犬の死を「読む」だけならば、美しい感傷を味わうだけのゆとりがある。しかしそれを「見せられる」のでは、刺激があまりに強すぎて、もはや享楽の
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