ろも同様に、ちゃんと生きた魂がはいっている。
 隣の大将が食卓でオール・ドゥーヴルを取ってから上目で給仕の女中の顔をじろりと見る、あの挙動もやはり「生きてはたらきかける」ものをもっている。
 生きているというのはつまり自然の真の一相の示揚された表情があるということであろう。こういう箇所に出くわすと自分はほっとして救われた気がするのであるが、多くの日本映画には、こうした気のする場面がはじめからおしまいまで一つもないのは決して珍しくないのである。

     十一 荒馬スモーキー

 この映画も監督は馬に芝居をさせているつもりでいるが、馬のほうでは、あたりまえのことながら、ちっとも芝居気はなくて始終真剣だから、そう思ってこの馬のヒーローを見ていると実に愉快である。子馬が生まれて三日ぐらいだという場面で、母馬の乳をしゃぶりながらかんしゃくを起して親の足をぽんぽんける、そのやんちゃぶりや、また、けられても平気ですましている母の態度や、実に涙が出るほどかわいくおもしろい真実味があふれている。
 悍馬《かんば》を慣らす顛末《てんまつ》は、もちろん編集の細工が多分にはいってはいるであろうが、あばれる
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