思われた。酒で堕落して行くおやじの顔の人相の変化はほんとうらしい。
 いちばんおしまいの場面で、淪落《りんらく》のどん底に落ちた女が昔の友に救われてその下宿に落ち着き、そこで一|皿《さら》の粥《かゆ》をむさぼり食った後に椅子《いす》に凭《よ》ってこんこんとして眠る、その顔が長い間の辛酸でこちこちに固まった顔である。それが忽然《こつぜん》として別の顔に変わる。十年も若返ったような顔で目にはいっぱい涙がたまっている。堅く閉じた心の氷がとけて一陽来復の春が来たのである。そうして静かにこの一編の終末がフェードアウトするのである。この終末の取り扱い方にどこかフランス芸術に共通な気のきいた呼吸を見ることができるような気がする。

     三 世界の屋根

 この映画で自分のもっとも美しいと思った場面はおおぜいの白衣の回教徒がラマダンの断食月に寺院の広場に集まって礼拝《らいはい》する光景である。だがせっかくのこのおもしろい場面をつまらぬこしらえものの活劇で打ちこわしてしまっているのは惜しいことである。ラマ僧の舞踊[#「舞踊」は底本では「無踊」]の場面でも同様によけいな芝居が現実の深刻味を破壊してしまっている。
 回教徒が三十日もの間毎日十二時間の断食をして、そうして自分の用事などは放擲《ほうてき》して礼拝三昧《らいはいざんまい》の陶酔的生活をする。こういう生活は少なくとも大多数の日本の都人士には到底了解のできない不思議な生活である。
 ベナレスの聖地で難行苦行を生涯《しょうがい》の唯一の仕事としている信徒を、映画館から映画館、歌舞伎《かぶき》から百貨店と、享楽のみをあさり歩く現代文明国の士女と対照してみるのもおもしろいことである。人生とは何かなどという問題は、世界をすっかり見た上でなければうっかり持ち出せない問題だということは、こんな映画を見ても気がつくであろう。

     四 忠臣蔵

 日活の今度の大仕掛けの忠臣蔵は前半「刃傷編《にんじょうへん》」を見ただけである。なるほど数年前の時代活劇から比べるとだいぶ進歩したものだと思われる点はいろいろある。たとえば、勅使接待の能楽を舞台背景と番組書だけで見せたり、切腹の場を辞世の歌をかいた色紙に落ちる一片の桜の花弁で代表させたりするのは多少月並みではあるがともかくも日本人らしい象徴的な取り扱い方で、あくどい芝居を救うために有効であ
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