の所へ遊びに行ったにんじんが、そこの幼いマチルドと婚礼ごっこをして牧場を練り歩く場面で、あひるや豚や牛などがフラッシで断続交互して現われ、おじさんの紙腔琴《しこうきん》に合わせて伴奏をするところも呼吸がよく合って愉快である。そうした趣向がうまいのではなくて、ただその編集の呼吸がうまいのである。同じことをやるのでもドイツ映画だとどうしても重くるしくなりがちのように思われる。同じようにこの呼吸のうまい他の一例は、停車場の駅長かなんかの顔の大写しがちょっと現われる場面である。実になんでもないことだが、あすこの前後の時間関係に説明し難い妙味がある。
 女中が迎えに来て荷馬車で帰る途中で、よその家庭の幸福そうな人々を見ているうちににんじんの心がだんだんにいら立って来て、無茶苦茶に馬を引っぱたいて狂奔させる、あすこの場面の伴奏音楽がよくできているように思う。ほんとうにやるせのない子供心の突きつめた心持ちを思わせるものがある。
 池へ投身しようとして駆けて行くところで、スクリーンの左端へ今にも衝突しそうに見えるように撮《と》っているのも一種の技巧である。これが反対に画面の右端を左へ向いて駆けって行くのでは迫った感じが出ないであろう。
 妖精《ようせい》の舞踊や、夢中の幻影は自分にはむしろないほうがよいと思われた。
 この映画も見る人々でみんなちがった見方をするようである。自分のようなものにはこの劇中でいちばんかわいそうなは干物《ひもの》になった心臓の持ち主すなわちにんじんのおかあさんであり、いちばん幸福なのは動物にまでも同情されるにんじんである。そうして一等いい子になってもうけているのは世間の「父」の代表者であるところのおとうさんの村長殿である。

     二 居酒屋

 ゾラの「居酒屋」を映画化したものだそうである。原著を読んでいないからそれとの交渉はわからない。しかし普通のアメリカの小説映画とは著しくちがった特徴のあることだけはよくわかる。話の筋も場面も実に尋常普通の市井の出来事で、もっとも瘋癲病院《ふうてんびょういん》の中で酒精中毒の患者の狂乱する陰惨なはずの場面もありはするがいったいに目先の変わりの少ないある意味では退屈な映画である。それだけに、そうしたものをこれだけにまとめ上げてそうしてあまり退屈させないで興味をつないで行くには相当な監督の手腕と俳優の芸が必要であると
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