ると思われた。しかしいちばん困るのは人間の芝居である。特にその対話である。吉良上野《きらこうずけ》のほうはだれがやるとしても比較的やさしいと思われるが浅野内匠《あさのたくみ》のほうは実際むつかしい。片岡千恵蔵《かたおかちえぞう》氏もよほど苦心はしたようであるが、どうも成効とは思われない。あの前編前半のクライマックスを成す刃傷《にんじょう》の心理的経過をもう少し研究してほしいという気がする。自分の見る点では、内匠頭はいよいよ最後の瞬間まではもっとずっと焦躁《しょうそう》と憤懣《ふんまん》とを抑制してもらいたい。そうして最後の刹那《せつな》の衝動的な変化をもっと分析して段階的加速的に映写したい。それから上野が斬《き》られて犬のようにころがるだけでなく、もう少し恐怖と狼狽《ろうばい》とを示す簡潔で有力な幾コマかをフラッシュで見せたい。そうしないとせっかくのクライマックスが少し弱すぎるような気がする。
第二のクライマックスは赤穂《あこう》城内で血盟の後|復讐《ふくしゅう》の真意を明かすところである。内蔵助《くらのすけ》が「目的はたった一つ」という言葉を繰り返す場面で、何かもう少しアクセントをつけるような編集法はないものかと思われた。たとえば城代《じょうだい》の顔と二三の同志の顔のクローズアップ、それに第一のクライマックスに使われた「柱に突きささった刀」でもフラッシュバックさせるとか、なんとかもう一くふうあってもよさそうに思われた。
滅びた主家の家臣らが思い思いに離散して行く感傷的な終末に「荒城の月」の伴奏を入れたのは大衆向きで結構であるが、城郭や帆船のカットバックが少しくど過ぎてかえって効果をそぐ恐れがありはしないか。自分がいつも繰り返して言うようにもし映画製作者に多少でも俳諧《はいかい》連句《れんく》の素養があらば、こういうところでいくらでも効果的な材料の使い方があるであろうと思われるのである。
早打ちの使者の道中を見せる一連の編集でも連句的手法を借りて来ればどんなにでも暗示的なおもしろみを出すことができたであろうと想像される。そういうことにかけてはおそらく日本人がいちばん長じているはずだと思われるのに、その長所を利用しないのが返す返すも残念なことである。
五 イワン
ドブジェンコのこの映画にも前の「大地」と同様な静的な画面をつないで行く手法が目につ
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