すぎて倦怠《けんたい》を招く箇所が少なくない。
 この映画のストーリーの原作では、たしか、最後に忠犬が猛獣を倒して自分もその場で命をおとすようなことになっているかと思う。それが映画ではハッピー・エンドになっている。たぶんこうしなければ一般観客のうけが悪いからであろう。しかしこのことは映画と小説との区別に関して一つの根本的な問題を暗示する。
 小説では忠犬を「殺す」ほうが得策であるのに映画では殺さないほうが得策だとすれば、それはいったいどこからそういう差別が生じるかということである。そこに小説と映画との本質的な差別の目標の一つを探り出す糸口がありはしないか。
 一つには、小説と映画では相手にする大衆の素質、顧客の層序において若干の異同のあることも事実であろう。しかしそれよりも大切なことは、映画の写し出す視覚的影像の喚起する実感の強度が、文字の描き出す心像のそれに比較して著しく強いという事実がこの差別を決定する重要な因子になるのではないかと思われる。
 忠犬の死を「読む」だけならば、美しい感傷を味わうだけのゆとりがある。しかしそれを「見せられる」のでは、刺激があまりに強すぎて、もはや享楽の領域を飛び出してしまう恐れがあるのではないかと思われる。

     十三 血煙天明陣

 この映画は途中から見た。ずいぶん退屈な映画であった。人間が人間を追っ駆け回す場面、人と人とが切り合う場面が全映画の長さの少なくも五割以上を占めているような気持ちがした。
 こういう映画の剣劇的立ち回りではいつでも実に不思議な一種特別の剣舞の型を見せられるような気がする。それは、できるだけ活発に縦横無尽に刀刃を振り回して、しかもだれにもけがをさせないという巧妙な舞踊を見せてくれる。それからまたたいていの人間なら疲れ果てて、へたばってしまうであろうと思われるような超人的活動を、望み次第にいくらでも続けて見せてくれるのである。映画でなければできないことである。
 子供の時分に老人から聞いた話によると、ほんとうの真剣勝負というものはこれとはまるでちがうものだそうである。にらみ合う時間ばかり長くて、刀の先がちょっとさわったと思うと両方一度にぱっと後ろへ飛びしざってまたにらみ合う。にらみ合うだけでだんだん呼吸がせわしくなって肩息になるのだという。聞いただけでもすごくなる。
 この種の映画でよくある場面は一群
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