ろも同様に、ちゃんと生きた魂がはいっている。
隣の大将が食卓でオール・ドゥーヴルを取ってから上目で給仕の女中の顔をじろりと見る、あの挙動もやはり「生きてはたらきかける」ものをもっている。
生きているというのはつまり自然の真の一相の示揚された表情があるということであろう。こういう箇所に出くわすと自分はほっとして救われた気がするのであるが、多くの日本映画には、こうした気のする場面がはじめからおしまいまで一つもないのは決して珍しくないのである。
十一 荒馬スモーキー
この映画も監督は馬に芝居をさせているつもりでいるが、馬のほうでは、あたりまえのことながら、ちっとも芝居気はなくて始終真剣だから、そう思ってこの馬のヒーローを見ていると実に愉快である。子馬が生まれて三日ぐらいだという場面で、母馬の乳をしゃぶりながらかんしゃくを起して親の足をぽんぽんける、そのやんちゃぶりや、また、けられても平気ですましている母の態度や、実に涙が出るほどかわいくおもしろい真実味があふれている。
悍馬《かんば》を慣らす顛末《てんまつ》は、もちろん編集の細工が多分にはいってはいるであろうが、あばれるときのあばれ方はやはりほんとうのあばれ方で寸毫《すんごう》の芝居はないから実におもしろい。
この映画を見て、自分ははじめて悍馬の美しさというものを発見したような気がする。馬を稽古《けいこ》する人が上達するに従ってだんだん荒い馬を選ぶようになる心理もいくらかわかったような気がする。何よりも荒馬のいきり立って躍《おど》り上がる姿にはたとえるもののない「意気」の美しさが見られるのである。
この映画の「筋」はわりにあっさりしているので「馬」を見るのに邪魔にならなくていい。それで、この映画は、まだ馬というものを知らない観客に、この不思議な動物の美しさとかわいさをいくらかでも知らせる手引き草として見たときには立派に成効したものと言ってもいいかと思われるのである。
十二 忠犬と猛獣
これも動物の芝居を見せる映画であるが、シェパードの芝居は象や馬の芝居に比べて、あまりにうま過ぎ、あまりに人間の芝居に接近し過ぎるので、感心するほうが先に立って純粋な客観的の興味はいくぶんそのために減ぜられるような気もする。
この映画の編集ぶりは少ししまりがないようである。同じような場面の繰り返しが多
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