なるのではないか。あの間隔をもっとつめるか、それとも、もっと「あわただしさ」を表象するような他のカットの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]入《そうにゅう》で置換したらあの大切なクライマックスがぐっと引き立って来はしないかと思われる。
 両国《りょうごく》の花火のモンタージュがある。前にヤニングス主演の「激情のあらし」でやはり花火をあしらったのがあった。あの時は嫉妬《しっと》に燃える奮闘の場面に交錯して花火が狂奔したのでずいぶんうまく調和していたが、今度のではそういう効果はなかったようである。しかし気持ちの転換には相当役に立っていた。
 衣笠《きぬがさ》氏の映画を今まで一度も見たことがなかったが、今度初めて見てこの監督がうわさにたがわずけた違いにすぐれた頭と技倆《ぎりょう》の持ち主だということがわかったような気がする。将来の進展に期待したい。ただし、このトーキー器械の科学的機構は未完成である。言語が聞き取れないために簡潔な筋のはこびが不明瞭《ふめいりょう》になる場所のあるのは惜しい。
[#地から3字上げ](昭和九年九月、文学界)

     九 カルネラ対ベーア

 拳闘《けんとう》というものはまだ一度も実見したことがない。ただ、時々映画で予期以外の付録として見せられることはあるが、今までこの競争に対して特別の興味をよびさまされることはついぞなかったようである。しかし、近ごろ見たカルネラ対ベーアの試合だけは実におもしろいと思った。自分は拳闘については全くの素人《しろうと》で試合の規則もテクニックもいっさい知らないのであるが、自分が最初からこの映画でおもしろいと思ったのはこの二人の選手の著しくちがった個性と個性の対照であった。
 カルネラは昔の力士の大砲《たいほう》を思い出させるような偉大な体躯《たいく》となんとなく鈍重な表情の持ち主であり、ベーアはこれに比べると小さいが、鋼鉄のような弾性と剛性を備えた肉体全体に精悍《せいかん》で隼《はやぶさ》のような気魄《きはく》のひらめきが見える。どこか昔日の力士|逆鉾《さかほこ》を思い出させるものがある。
 最初の出合いで電光のごときベーアの一撃にカルネラの巨躯がよろめいた。しかし第三回あたりからは、自分の予想に反して、ベーアはだいたいにおいて常に守勢を維持してばかりいるように見えた。カルネラ
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