しろ廃頽的《はいたいてき》な効果を与えるのみではないかという疑いがある。
ドン・キホーテはここでいう人間の真実を描いた漫画映画の好題目である。しかし、せんだって上映されたシャリアピンの「ドン・キホーテ」はそういう意味ではむしろ不純なものであったかと思う。自分は今度見たミッキーマウスの中の犬を描いた筆法でドン・キホーテを描いた漫画映画の出現を希望したいと思うものである。
八 一本刀土俵入り
日本の時代ものの映画でおもしろいと思うものにはめったに出会わない。たいていは退屈でなければ冷や汗の出るようなものである。しかし近ごろ見た「一本刀土俵入り」だけはたしかに退屈せず気持よく見られた。
第一にはカットからカット、場面から場面への転換の呼吸がいい。たとえばおつたと茂兵衛《もへえ》とが二階と下でかけ合いの対話をするところでも、ほんのわずかな呼吸の相違でたまらなく退屈になるはずのがいっこう退屈しないで見ていられるのはこの編集の呼吸のよさによるのである。おつたがなんべんとなく茂兵衛《もへえ》を呼び止めるのがいったいならくどくしつこく感ぜられるはずであるが、ここでは呼び止める一度一度に心理的の展開があって情緒の段階的な上昇があるから繰り返しがかえって生きてくるのである。これはもちろん原作のいいためもあろうが、この映画のこの点のうまさはほとんど全く監督の頭の良さによるものと判断される。
けんかや立ち回りの場面も普通の映画では実に退屈に堪えないのが多いが、この映画のそうした場面は簡潔で要領がよくてかえってほんとうらしい。
林長二郎《はやしちょうじろう》、岡田嘉子《おかだよしこ》の二人も近ごろ見た他の映画における同じ二人とは見ちがえるように魂がはいっている。映画には、俳優が第二義で監督次第でどうにでもなるという言明の真実さが証明されている。端役《はやく》までがみんな生きてはたらいているから妙である。
最後の場面でおつたが取り落とした錦絵《にしきえ》の相撲取《すもうと》りを見て急に昔の茂兵衛のアイデンティティーを思い出すところは、あれでちょうど大衆向きではあろうが、どうも少しわざとらしい、もう一つ突っ込んだ心理的な分析をしてほしい。甦生《こうせい》した新しい茂兵衛が出現して対面してから、この思い出す瞬間までのカットの数が少しばかり多すぎるから思い出しがわざとらしく
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