ひょう》や大蛇《だいじゃ》をつかまえる場面もある。網というものは上着以上にどうにもしようのない動物の強敵であるらしい。全く運命の網である。天網という言葉は実にうまい言葉を考えついたものである。押し破ろうとして一方を押せば、押したほうは引っ込んで反対側が自分をしめつける。
 大蛇が箱から逃げ出す場面で猿《さる》や熊《くま》の恐怖した顔のクローズアップを見せる。あの顔がよくできている。これに反して傘蛇《からかさへび》に襲われた人間の芝居がかりの表情はわざとらしくておかしく、この映画の中でいちばんまずい場面である。わが国の映画界のえらいスター諸君もちとあの猿や熊の顔を見学し研究するといい。

     七 漫画の犬

 このごろ見た漫画映画の内でおもしろかったのはミッキーマウスのシリーズで「ワン公大あばれ」(プレイフル・プルートー)と称するものである。その中で覚えず笑い出してしまった最も愉快な場面は、犬が蠅取《はえと》り紙に悩まされる動作の写真的描写である。鼻の頭にくっついたのを吹き飛ばそうとするところは少し人間臭いが、尻《しり》に膠着《こうちゃく》したのを取ろうとしてきりきり舞いをするあたりなど実におもしろい。それがおもしろくおかしいのは「真実」がおもしろくおかしいからである。犬が結局窓の日蔽幕《シェード》に巻き込まれてくるくる回る、そうなると奇抜ではあるがいっこうにおかしくない。それはもう真実でないからである。
 漫画の主人公のねずみやうさぎやかえるなどは顔だけはそういう動物らしく描いてあるが、する事は人間のすることを少しばかり誇張しただけである。結局仮面をかぶった人間に過ぎない。しかしこの犬だけはいつでも正真正銘の犬である。犬を愛し犬の習性を深く究《きわ》め尽くした作者でなければ到底表現することのできない真実さを表現している。
 この犬を描くのと同じ行き方で正真正銘の人間を描くことがどうしてできないのか。それができたらそれこそほんとうの芸術としての漫画映画の新天地が開けるであろうと思われる。現在の怪奇を基調とした漫画は少しねらいがはずれているのではないか。実在の人間に不可能で、しかも人間の可能性の延長であり人間の欲望の夢の中に揺曳《ようえい》するような影像を如実に写し出すというのも一つの芸術ではあるが、そうした漫画は精神的にはわれわれに何物をも与えず、ただ生理的にむ
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