それを取り上げられて後にまた第二のピストルをかくしに探るところなどは巧みに観客を掌上に翻弄《ほんろう》しているが、ここにも見方によればかなりに忠実な真実の描写があり解剖がありデモンストラチオンがある。やはり一つのおもしろいエキスペリメントを行なって見せているのである。
 最後の場面で、花売りの手車と自動車とが先刻衝突したままの位置で人けのない町のまん中に、降りしきる驟雨《しゅうう》にぬれている。あの光景には実に言葉で言えない多くの内容がある。これもその前の弥次《やじ》のけんかと見物の群集とがなかったら、おそらくなんの意味もないただの写真としか見えないであろう。やはりフランス人には俳諧《はいかい》がある。
 一編の最後に光の消えたスクリーンの暗やみの中から響く、甘い美しい音楽は、なんとなく「新内の流し」とでもいったような、パリの場末の宵《よい》やみを思わせるものである。作曲者はちがうそうであるのに「パリの屋根の下」の歌のメロディーとどこか似たメロディーがところどころに編み込まれている。その両方に共通なものがおそらく「パリの巷《ちまた》の声」であろう。
 フランス語がわからなくて残念であるが、考えようによっては、それがわからないために、それのわかる人にはわからないおもしろみもあるであろう。たとえ言葉はわかっても結局パリっ子でない日本人が見たパリっ子はどうしてもパリっ子の見たパリっ子とは同じではないからである。かえって、下手《へた》な活弁を労したり、不つりあいな日本文字のサイドタイトルなどをつけられるよりも、ただそのままにわからぬ言葉を聞くほうがはるかにパリの真実、日本人の見たパリの真実がよくわかるのではないか。それがわかるようにするところに作者の人知れぬ苦心があるのではないか。

     「人生謳歌」

 グラノフスキーの「人生謳歌《じんせいおうか》」というのを見せてもらった。原名は「人生の歌」というのであるが、自分の見たところではどうも人生を謳歌したものとは思われない。むしろやはり一種のトーテンタンツであるような気がする。実際始めのほうの宴会の場には骸骨《がいこつ》の踊りがあるのである。胎児の蝋細工模型《ろうざいくもけい》でも、手術中に脈搏《みゃくはく》が絶えたりするのでも、少なくも感じの上では「死の舞踊」と同じ感じのもののように思われる。終局の場面でも、人生の航路
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