に波が高くて、舳部《じくぶ》に砕ける潮の飛沫《ひまつ》の中にすべての未来がフェードアウトする。伴奏音楽も唱歌も、どうも自分には朗らかには聞こえない。むしろ「前兆的」な無気味な感じがするようである。
海岸に戯れる裸体の男女と、いろいろな動物の一対との交錯的|羅列的《られつてき》な編集があるが、すべてが概念的の羅列であって、感じの連続はかなりちぐはぐであり、従って、自分のいわゆる俳諧的《はいかいてき》編集の場合に起こるような愉快な感じは起こらない。人間も動物も同じものに見えてくることも自分にはあまり愉快でない。
動物のように戯れ、動物のように子供を生むだけの事ならば人生は謳歌《おうか》すべきものとは自分には思われない。
作者はロシア人でも映画は純粋なドイツ映画である。ロシア映画にはもう少しのんびりした愉快な所もあるはずである。一応わかった事をどこまでも執拗《しつよう》にだめを押して行くのがドイツ魂であって、そのおかげで精密科学が発達するのであろう。
この種類の映画がこの方向に進歩したらおしまいにはドイツの古典音楽のようなものができるという可能性があるかもしれない。そういう意味ではこの映画は大いに研究に値するものかもしれない。しかしこういう行き方では決してドビュシーの音楽のようなものはできないであろう。それはやはりフランス人に待つほかはない。
「七月十四日」のすぐあとでこの「人生の歌」を見たためにこういう対照を特に強く感じたのかもしれない。映画の内容のモンタージュが問題となるように、見るべき映画のプログラムのモンタージュもやはり問題になるようである。
ともかくも「人生の歌」には理知的興味が勝っているので、そういうものを要求する観客にはおもしろいかもしれない。そういう観客には「七月十四日」はかえってはなはだ空疎なものに見えるかもしれない。それでこの二つの映画を見せて、そのいずれを選ぶかによって観客の定型を二つに分けることもできそうである。解析型と直観型あるいは構成派と印象派といったような二つに分けられはしないか。そう簡単にはゆかないまでも、少なくもこういうふうに考えてみることによってこの二つの映画の了解を助けることにはなるであろうと思われる。
[#地から3字上げ](昭和八年三月、帝国大学新聞)
底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
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