。フランス人は理屈を詰めて行くのをめんどうくさがって「かん」の翼で飛んで行くのである。
「パリ祭」
このような感じをいっそう深くするものはルネ・クレール最近の作品「七月十四日」(パリ祭―この訳名は悪い)である。この映画も言わばナンセンス映画で、ストーリーとしては実にたわいないものである。しかし、アメリカ人のナンセンスとは全く別の種類に属するナンセンス芸術である。「猿蓑《さるみの》」や「炭俵」がナンセンスであり、セザンヌやルノアルの絵がナンセンスであり、ドビュシーやラベールの音楽がナンセンスであると同じような意味において立派なナンセンス芸術であるように思われる。
場面から場面への推移の「うつり」「におい」「ひびき」には、少しもわざとらしさのない、すっきりとして気のきいた妙味がある。これは俳諧《はいかい》の場合と同様、ほとんど説明のできない種類の味である。たとえばアンナが窓から町をへだてた向こう側のジャンの窓をながめている。細めにあいた戸のすきから女の手が出る。アンナがそれに注目する。窓が明いてコンシェルジの伯母《おば》さんが現われる。アンナが「そうか」といったような顔をする。文字で書けばたったこれだけの事である。これだけならば米国でもドイツでも日本でもいつでもできる仕事であると思われるかもしれない。しかし実際はこの場合の巧拙を決定するものはほんのわずかな呼吸である。画面連続の時間的分配を少しでも誤れば効果は全然別のものになるであろうと思われる。要するに「かん」だけの問題である。
ナンセンスの中にのみほんとうの真実が存するという人がある。このナンセンス映画の中にもパリ人というものの真実な描写が多少の誇張の衣を着て現われているであろう。監督によって選ばれたいろいろの「タイプ」によって、それが表現されているのである。門番のおばさんでも、気の変な老紳士でも、メーゾン・レオンの亭主《ていしゅ》でも、悪漢とその手下でも、また町のオーケストラでも、やっぱり縦から見ても横から見てもパリの場末のそれらのタイプである。
レオンの店をだされたアンナが町の花屋の屋台の花をぼんやりながめる。花屋のおばさんが花束をさしだす。我れに帰って歩きだす。そういう些細《ささい》な場面にもやはり些細の真実の描写がある。
気の変な老紳士は観客を笑わせる。踊り場でピストルをひねくり回し、
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