えって鑑賞の邪魔になっているわけである。これで思い出すのは、いつかウーファの教育映画で本物の生きた「ひとで」のきわめて鮮明な大写しを見た、その「科学的なひとで」のほうにかえってはるかに美しく真実な詩があった。マン・レイの「ひとで」の中にも少しばかりこれに似た実写が插入《そうにゅう》されているが、前者とは比較にならぬほど美しからぬものに見えた。この「ひとで」はあまりに細工が過ぎているように思われる。もう少し自然な真実なものの適当な理解ある編集によって、もっともっと美しい詩が構成されてもいいはずである。真実でないものをいくらどう並べてみたところで美しくなりようがないと思うのである。
「貝がらと僧侶《そうりょ》」もはなはだ不愉快な映画であった。脚色者があさはかな人間の知恵をもてあそぶに忙しいだけで、科学的に真実な、万人を無条件に納得させるような何物をも含んでいないからである。
「パリ―ベルリン」
これに反して「パリ―ベルリン」と名づけるナンセンス映画は近ごろ見たうちで比較的おもしろい愉快なものであった。もちろん、話の筋や役者の芸などは初めから問題にはならない。おもしろいのは主として編集の技巧から来る呼吸のおもしろさであると思う。たとえば拍手している多数の手がスクリーンの上に対角線状に並んで映る。それ自身としてはくだらないものである。これが插入《そうにゅう》の呼吸で実に不思議なおもしろいものに見えるのである。それからもう一つのおもしろみの原因は登場するキャストの選定によって現わされた人間の定型の真実さにある。たとえば友だちの名をかたってパリへ出かけるいたずら者が、自分の引き立て役に純ドイツ型の椋鳥《むくどり》を連れて行く、その椋鳥のタイプとか、パリ遊覧自動車の運転手とか案内者とか、ベデカと[#「ベデカと」は底本では「ペデカと」]首っ引きで、シャンゼリゼーをシャンセライズと発音する英国老人とかいうのがそれである。オベリスクやエッフェル塔が空中でとんぼ返りをしたりする滑稽《こっけい》でも、要領がよいのでくすぐりに落ちずして自然に人のあごを解くようなところがある。
「制服の処女」とこの映画とを比べても実によくドイツ人の映画とフランス人の映画との対照がわかるような気がするのである。映画人としてもドイツ人はやはり「あたまが悪く」て、その結果として物事を理屈で押して行く
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