かしいであろうと思われる。しかしまた同じ理由からしてこの映画はすべての男性にとって別な意味で特殊な興味のあるものに相違ないのである。
不自由な環境によって生み出された不自然な現象の一つとして一人の女生徒マヌエラと一人の女教師フロイライン・フォン・ベルンブルヒとの間の不思議な関係が生じ、それがこの映画の演劇的な部分のおもなる骨子となっている。この葛藤《かっとう》に伴なう多くの美しい感傷の場面の連続によって観客の感興をつなぎつつ最後の頂点に導いて行く監督の腕前はそんなに拙であると思われないようである。しかしそういう劇的な脚色の問題とは離れて、前記の「実験」の意味からいうと、本筋のストーリーよりもあのおおぜいの女学生の集団の中に現われる若いドイツ女性のケックハイト、デルブハイトといったようなものの描写の中に若干の真実の表現があるようで、見方によってはむしろそのほうに興味を引かれ同時にいろいろの問題を暗示されるようである。
不自然な世界の中での自然な現象としては舎監やその助手のばあさんがある。自分の目にはこの二人のばあさんがもっとも理解しやすい「定型」として現われる。この二人の憎まれ役は、おそらく見ようによってはもっとも善良なる旧時代の残存者である。これに反してもっともわかりにくい存在はこの若く美しい生徒に慕われる女教師である。ひどく骨っぽく冷たいようにも見え、またひどく情熱的魅惑的にも見える。どこかブリギッテ・ヘルムに似たところのあるこの役者のこの配役にはなんとなくダヴィンチのモナリザを思わせる不可思議なものがある。少女マヌエラのほうは、理性よりも、情緒の勝った子供らしい、そうしてなんとなく夢を見ているような目と、なんとなくしまりの悪い口元のあたりにセンシュアルな影がある。それがこの劇の心理的内容を複雑にするに有効であるように見える。
「ひとで」
この映画と同時に有名なマン・レイの「海翻車《ひとで》」を見た。全体としては、正直にいって決して「おもしろい」ものではない。しかし、なにかしら、ほんとうにおもしろいものへの第一歩でありおぼつかない試みであるとはたしかに思われるものである。これはロベール・デスノという人の原詩を脚色したものだそうであるから、原詩をよく味わった人にはあるいはいくらかおもしろいかもしれないが、われわれにはそんな知らない原詩のある事がか
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