たにありありと完全に消えてしまうのである。
 この映画に取り扱われた太鼓の主題はたしかにヒロインの愛の対照のライトモチーフとしての役目を立派に果たしていると思われる。こういう点でこの映画は一つのおもしろい試みである。そうして少なくも有声映画に特有な一つの新しい可能性を指摘する点においてかなりの程度まで成効したものと思われる。
 音的主題に最も単調な太鼓が選ばれ、そうしてそれがこれほどに成効しているということはわれわれに何事かを暗示する。元来有声映画はもちろん音楽ではない。われわれは聴覚と視覚を同時に働かせる事を要求される。この場合にもしあまりに複雑な、それ自身の存在を強く主張するような音楽を持ち込んだとしたらどうであろう。おそらくわれわれの注意はその音楽のほうに吸収されて視覚のほうが消えてしまうか、あるいはかえって音楽のほうがわれわれの注意の圏外を上すべりにすべり越してしまうことになりはしないか。ともかくもこれは発声映画製作者に一つの問題を提出するものであろう。
 この映画に取り入れられた僅少《きんしょう》な音楽もかなりに有効に使われている。ヒロインが病院の病室を一つ一つ見回って愛人を
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