ほどまでに概念的、説明的、型録的に一から十までを一々|羅列《られつ》して見せなくてもよいと思われる。あれだけならば何もカメラを借りずに筋書きを読まされても、印象においてはたいした変わりはない。これは映画の草昧《そうまい》時代において、波の寄せては砕けるさまがそのままに映るのを見せて喜ばせたと同様に、トーキーというものにまだ一度も接したことのない観客に、丸髷《まるまげ》の田中絹代《たなかきぬよ》嬢の「ネー、あなたあ」というような声を聞かせて喜ばせようというだけの目的であるのならばその企図は明瞭《めいりょう》に了解される。われわれの日常生活の皮相的推移の見本がそっくり、あるいは少し誇張されて、眼前に映出されるのを見て珍しがるだけの目的ならばそれは確かに成効と言わなければなるまい。しかしこの概念的記述的なるものの連続の中には詩もなければ音楽もなく、何一つ生活の内面に立ち入ったリアルな生きた実相をつかまえてわれわれに教えてくれるものはないようである。つまり現代の映画の標準から見ればあまりに内容に乏しい恨みがあるのである。同じ家庭の一夜を現わすにしても、ルネ・クレールは、また、ドブジェンコは、お
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