はり映画芸術に本質的な随一の要素の一つを具備しているからであろう。牡牛《おうし》の死ぬる前後のところも単なる実写的の真実に対する興味のほかに、映画としての取り扱い方のうまさは充分にある。それから、こういうロシア映画でいつもおもしろいと思うのは出場人物のタイプの豊富さであるが、これは他の欧州諸国では得られない天然の制約によるものであろう。
この監督の新しい理論に基づいて構成されたと称するこの映画は、たしかにおもしろいところがあるには相違ないが、しかしまだなんとしても未来の映画への一つの試みという程度を越えていないような気がする。いろいろないわゆるモンタージュやエディティングの必然性が観客の頭へはそれほどに響いて来ない。おそらくこの監督自身の企図している道程から見ても、わずかに一歩を踏み出したに過ぎないではないかと思われる。聞くところによるとこの有名な映画監督は日本の文化の中の至るところに映画術的要素があるのに、日本の今の映画には不思議にその要素が欠けている、という意味の批評をしているそうである。そうして日本の俳諧《はいかい》や短歌の中にモンタージュ芸術の多分な要素の含まれていることを強
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