とかボーアとか、ショーとか、シンクレア・リューウィスとか、あるいはマチスとか、ラヴェルとかあるいはまたそれほどでないとしたところでたとえば今度空中を飛んで来たリンドバークのような、そういう階級の頭脳をもった人たちがたまたまメガフォンを取ってシャツ一枚になって映画を作っているのではないか。
私は一般平均から見ても、また個別的に見ても、学芸にかけての日本人の頭が少しでも欧米文化国民のそれに劣らないものだと信じて疑わないものである。しかし今までのところでまだ学芸方面において世界第一人者として、少なくとも公認されたものの数のはなはだしく希少なことについては、これにはまたいろいろの「事情」があるようである。
今ここでこの事情なるものの分析を試みるべき筋ではないが、ともかくも、たとえばリンドバークがもし現在の日本に生まれていたら彼は決して飛行家になっていないであろうと同様に、スタンバーグ、クレール、エイゼンシュテインが日本に生まれていたのであったら彼らはまたおそらく映画監督にはなっていなかったであろうと想像される。従って、もしそうであるとしたら、この「事情」が取り除かれない限り、将来日本でほんとうに世界的な映画の作られる見込みもまたはなはだ希薄であろうと思われるのである。この事情はいつまで持続するか。これは実に単に映画界だけの問題ではなくて、日本の文化一般の将来に係わる実にだいじな一問題ではないかという気もするのである。
[#地から3字上げ](昭和六年十月、中央公論)
七
ルネ・クレール作「自由をわれらに」は近ごろ見た発声映画の中でもっとも愉快なものである。刑務所や工場を題材にしているにかかわらず、全体に明るい朗らかな諧調《かいちょう》が一貫している。このおもしろさはもちろん物語の筋から来るのでもなく、哲学やイデオロギーからくるのでもなんでもなくて、全編の律動的な構成からくる広義の音楽的効果によるものと思われる。
この映画の視覚的要素で著しく目立ったライトモチーフと思われるものは、並行直線と円による幾何学的形像の構成、それから直線運動と円運動との律動的な交錯である。
刑務所の仕事場と食堂の並行直線。これに対応して蓄音機工場における全く同様な机と人間の並行線列。学校教場の生徒の列もいくらかこれに応ずるエピソードである。刑務所と工場との建築に現われるあら
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