ほどまでに概念的、説明的、型録的に一から十までを一々|羅列《られつ》して見せなくてもよいと思われる。あれだけならば何もカメラを借りずに筋書きを読まされても、印象においてはたいした変わりはない。これは映画の草昧《そうまい》時代において、波の寄せては砕けるさまがそのままに映るのを見せて喜ばせたと同様に、トーキーというものにまだ一度も接したことのない観客に、丸髷《まるまげ》の田中絹代《たなかきぬよ》嬢の「ネー、あなたあ」というような声を聞かせて喜ばせようというだけの目的であるのならばその企図は明瞭《めいりょう》に了解される。われわれの日常生活の皮相的推移の見本がそっくり、あるいは少し誇張されて、眼前に映出されるのを見て珍しがるだけの目的ならばそれは確かに成効と言わなければなるまい。しかしこの概念的記述的なるものの連続の中には詩もなければ音楽もなく、何一つ生活の内面に立ち入ったリアルな生きた実相をつかまえてわれわれに教えてくれるものはないようである。つまり現代の映画の標準から見ればあまりに内容に乏しい恨みがあるのである。同じ家庭の一夜を現わすにしても、ルネ・クレールは、また、ドブジェンコは、おそらくこのようには表現しなかったであろう。概念の代わりに「印象」を、説明の代わりに「詩」を、そうして、三面記事の代わりに「俳諧《はいかい》」を提出したであろうと想像される。
 日本人、ことに知識階級の人々の中にはとかく同胞人の業績に対してその短所のみを郭大し外国人のものに対してはその長所のみを強調したがるような傾向をもつものがないとは言われない。そうしてかなりつまらない西洋の新しいものをひどく感嘆し崇拝して、それと同じあるいはずっとすぐれたものが、ずっと古くから日本にあってもそれは問題にしないような例は往々ある。私が一般に西洋映画に対して常に日本映画を低く評価するような傾向を自覚するのは畢竟《ひっきょう》私もまたこのようなやぶにらみの眼病にかかっているせいであるかとも考えてみる。
 しかし、思うに今世界的にいわゆる名監督と呼ばるる第一人者たちは、いずれも皆群を抜いた優秀な頭脳の所有者であって、もしも運命の回り合わせが彼らを他の本職に導いたとしたら、おそらく、彼らはそれぞれの方面でやはり第一人者でありうるだけの基礎的素質を備えているのではないかという気がする。換言すれば、アインシュタイン
前へ 次へ
全32ページ中28ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
寺田 寅彦 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング